なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

熱き心に

シカゴは−15℃だけど、晴れている。ハバロフスクは−11℃で、シカゴより少し暖かい。って、これは暖かいとはいわない。にわか雪。ふわふわと白い粉みたいなものが舞っている。

今年最後の京阪電車に乗って、実家に帰った。大晦日の朝の京阪電車はすいていて、右側から照りつける日差しがまぶしかった。昨夜はしとしと雨が降っていたけど、朝になるとすっかり止んだ。わたしが寝ている間も、ハバロフスクでは雪が降っていたのだろうか。
多和田葉子『言葉と歩く日記』(岩波新書)を読む。言葉ってほんとうに面白い。そのことをずっと考え続ける多和田葉子がもっと面白い。日記だけど日記ではなく、でも日付があるとちゃんと日記になる。『川の底からこんにちは』を観たくなった。借りてきたいが、いったいツタヤの会員証はどこへ行ったのか。

実家に帰り着くなり母に、また破れたGパンはいて!、と怒られる。いい歳して!、と。わたしは母に服装のことで、かれこれ30年ほど叱られ続けている。破れたもんはかんとき!、と言うので、買ったときから破れててん、と言ってみる。会社にもそんな格好で行っているんじゃないやろね、とジロッと睨まれた。通勤時のわたしを見たら、母は卒倒寸前になるだろうと思ったので、黙っていた。

煮しめ、田作り、黒豆、たたきごぼう。お重につめる。母と餅を分け合い、お鏡餅を飾り、鯛を焼く。NHKニュースでは訃報が流れる。最近で一番思い出すのは、2011年の震災直後にあったNHKFMの「大瀧詠一三昧」だ。あの何をする気にもならなかった数日間の後で、ラジオから流れる音楽に、どれほど救われたことか。本当に力があった。あの力は、何があっても消えないだろう。
いつも誰かがいなくなっていく。自分が死ぬことなんかもうどうでもいいが、周りの大切な人たちがなくなっていくのを止める術がないのが人生のしんどいところその1。逃れられない悲しみがあると知ってて、また次の年へと、コマを進めるしかないのだ。

ブエノスアイレスは26℃。曇り空だ。昨日は雷雨だった。ビカビカ光っていた。リオデジャネイロは朝の11時でもう30℃まで気温が上がっている。

iphoneの長方形の画面に並んだアイコンの、太陽の絵をつついた。表示された東京の気温は二十五度だった。ロンドン、フェズ、サンパウロ、カイロ、ソウル、台北ハバロフスクヘルシンキ那覇旭川。画面をスライドさせて、登録した都市の天気と気温を確かめていった。ハルツームは、四十一度だった。うれしかった。

柴崎友香さんの『ハルツームにわたしはいない』のこの文章を読んでから、iphoneの天気のアイコンを朝昼晩、しょっちゅうつつくようになった。世界の天気と気温を確かめるだけのことが、何故こんなにおもしろいんだろう。多和田葉子が言葉について考え続けるように、わたしも世界の天気と気温のことを考え続けるようになった。
平壌は、週間予報ではずっと快晴の予定だったのに、それは外れたようで、昨日も今日もずっと曇っている。夜には氷点下の気温になり霧が出る。なんて厳しい土地なんだろう。国の体制だけではなくて、天気までもが。

新しい年が良い年になるなんて、とても思えない。でも「良い」「悪い」ってなんだろう。そんなもの、きっともうない。日々めぐる時間を、ただ生きていく。

『昨日の眺め』に文章を載せてもらいました。http://pokan00.blogspot.jp/
目録は眺めるだけでも楽しい。本の背表紙みたい。書名の羅列は美しい。
恵文社行って本買って、珍遊でから揚げと餃子でビール飲んで、公園でアイスクリームを食べるコースが好きでしたが、アイスクリーム屋はいつの間にかもう、なくなってしまいました。

you talkin’to me?

年の瀬の大阪。昼休み、堂島界隈を歩いていると、カレンダーがたくさんつっこまれた紙袋を手にした人々とすれ違う。きょうが仕事納めの人が多いのだろうな、わたしは違うけど。
会社でもノベルティとしてもらった来年のカレンダーをみんなで分け合っていた。壁掛け、卓上、ポスター型、日めくり。先日、テアトルで観た『もらとりあむたま子』でも、年末のある日、家中のカレンダーをかけかえるシーンがあって、とても良かった。年があらたまるって、カレンダーをかけかえることなのかもしれない。カレンダーをめくることで、今日と明日が違う日であることがわかる。わからせる。

帰り道。きらびやかなイルミネーションがなくなり、また人気のなくなった中之島を通る。公会堂と黒い川。阪神高速のオレンジの光と難波橋の暗いライオン。やっぱり中之島はこうでなくては。目をこらさないと先の道が見えないくらいの闇の中を歩きたい。
昨夜、忘年会から解放された後の終電の地下鉄で、エレンブルグの詩を読んでいた。山田稔が書いたエレンブルグについての文章が読みたくなって、夜中に本棚をかき回してみたけれど、どこに収録されているのか見つけられず、本日、天満橋ジュンク堂で書棚を眺めていたら、みすず書房の『別れの手続き』に入っていることがわかって、何でこの本がうちの家にないのかよくわからないのだけれど、そのことはあまり深く考えるのはやめ、とりあえず本を買った。この中の『生存者の悲哀』という文章が、たまらなく好きなのだ。

私は誰を呼んだらいいのか。生き残ったというこの悲しい喜びを、私はだれと分かち合ったらいいのか。ここでは水車小屋さえも目を閉じている。ここでは一人として知合いはなく、私のことを憶えていてくれた者たちからも、もうとうに、私は忘れられてしまった…

これはエレンブルグが回想しているエセーニンの詩句。

昨日は会社の忘年会だった。鶏を食べた。相変わらず、特に面白くも面白くなくもなかった。わたしと同じテーブルにいた5人の人は誰も、正月休みに私が観たいと言った『ゼロ・グラビティ』のことを知らなかった。衝撃的だった。決して多くは求めていないつもりだが。
ビール、赤ワイン、白ワイン、焼酎、地酒、ハイボール。たくさんの種類の酒が体内に入り、胃におりていく。わたしは充分、楽しそうにやれていた。どこに出しても笑顔だと認められる顔をつくっていた。
おまけによせばいいのに二次会まで行った。よくある個室居酒屋なのかと思えば、そこはカラオケがしつらえてあるのであった。喋ることがないから歌を唄うのか。本当に唄いたいのか、よくわからない。Yさんは、キャンディーズの引越しの歌をうたいます、と言って『微笑みがえし』をうたった。これって引越しの歌やったんや。わたしは『セーラー服を脱がさないで』をうたった。おばんになっちゃうその前に、おいしいハートを食べて。酔っ払って髪の乱れたT島さんが、いやあいい歌ですねえ、と言っていた。どこがええ歌やねん。

きょうは久々に、おうちでご飯をつくった。とりやさい味噌を使って、味噌鍋。白菜たくさん入れた。でたらめな料理でも、家で食べるごはんが一番おいしい。
わたしはカレンダーをもらわなかった。カレンダーがなくても、来年は来る。何もしなくても、じっとしていても、ぼうっとどこかを眺めているだけでも。

あしたの天気はどうですか

リビングのテーブルに肘ついて、珈琲を飲みつつ家の窓からぼうっと外を眺めていたら、斜め向かいのマンションのベランダに干された、水色の毛布が風に揺れていた。10分か15分の間、ずっとずっと揺れていた。
わたしが水色の毛布を眺めていたのは早朝で、それから掃除して、買い物行って、じゃがいも茹でて、本読んで、ご飯食べて、クリーニング屋と図書館まわって洗濯物を取り入れて、やがて夕方になって、朝と同じテーブルの位置に落ち着いて外を眺めたら、まだ水色の毛布は、朝と同じように風に揺れていた。それを見たら、突然なんか書きたくなった。だから書いた。

10月は、ビルボードでのマデリン・ペルーのライブではじまった。
マデリン・ペルーは、写真で見るよりもずっと、堂々とした人だった。体格も、まあ、「でかい」わけだけど、あれは太っているとは言わない。一体、歳はいくつなんだか、まだ若いだろうに風格みたいなものがあった。シンプルなジャケットを羽織って、裸足でギターを持っていた。唄も声も当たり前に自然で、ラブソングを唄っても、全然ベタベタしてこない。人を愛して苦しむのは仕方ないことよ、だってそういう成り立ちのものなんだもの。

1日からオーガニックなステージを体験したので、今月は、そうだ、なんていうかこう、簡潔に生活しよう、さらっとシンプルな毎日を送ろう、あっさりとして、あんまり考えすぎないで、そうだそうしようと、思っていたのだけれど、4日に元町映画館で観た映画が『非情城市』だったので、それから後は、もうあっさりした生活はできず、台湾の歴史について、図書館に行って調べたりなど、濃いことをしてしまった。

非情城市』を観たのは初めてで、うーん、確かにさすがにうまい、流れるようなのに印象は強烈で、すごい映画だった。レコードをかけながら、筆談する男女のシーンの撮り方はうなるほどうまくて、自分の気持ちを伝えるために文字を書きつけるという行為の一生懸命さを目にするだけでも、この映画を観る価値がある。
主役の人、トニーレオンに似てるなあ、瓜二つやなあ、と感心してて、映画館の人がくれた解説書を見たら、本当にトニーレオンやった。そんなことも知らずに観てた。

13日のクライマックスシリーズカープ戦で、桧山が最終打席でライトにホームランを打ったのには、全く全くびっくりした。普段、テレビは全く観ないわたしが、その時たまたま実家に帰っていて、ゲームを見られる状況だったことも、何かに差配されていたような気がした。
桧山が打ったとき、わたしは泣かなかった。あとから友人が「泣いたよ〜」とメールを寄越したけれど、わたしは涙の一滴もでなかった。でも心を動かされなかったわけではなくて、たぶん涙も出ないほどびっくりしたんだと思う。
野球選手の夢をよく見る。出演回数の多いのは断然、仰木監督と野茂で、夢でふたりは絶対、近鉄のユニフォームを着ている。オリックスでもドジャースでもなく、胸に「Buffaloes」と記されたホーム用のユニフォームで、キヨシローも時々被ってた、岡本太郎デザインの、シンボルマークつきの帽子を被っている。
ホームランを打って、セカンドからサードの間を走っている桧山を見て、この人もこれから絶対、わたしの夢の中ではずっと、背番号24の縦じまユニフォームやろうな、と思った。どれだけ年老いても、どれだけ月日がたって、いろんなことがどんな風に変わっても、ずっと今のまま、縦じま24番やろうな、と思った。

試合の後、大阪に戻って、繁昌亭で落語を聴いて、その後近くの、フランス料理でもあるし、イタリア料理でもあるような、キリンジ兄に似た男の人がひとりでやっているお店で、ごはんを食べた。この店に行くのは2回目だけど、いつも何を食べても美味しい。特に、この日に食べた、天然ヒラメのグリルは絶品で、こんがり焼けて、中はふんわりジューシーで、ソースの味は何か忘れたけど、とにかくすごく美味しかった。友人とふたりでむしゃむしゃ食べた。友人が、わたしこの先どうがんばってもこんなに上手く魚を焼くことはたぶんもうできないから料理について努力するのは金輪際やめる、みたいなことを言い出して、料理とは何の関係もないのに、後片付けと掃除ももう嫌になったから食器洗い乾燥機とルンバも買う、と息巻いていた。
美味しいものを食べるのはよいことだ。生活を打開できる、かもしれない。

こうやって書いている間に、とっぷり日が暮れ、いつのまにか、水色の毛布も取り込まれていた。夜に、なりました。

「ぽかん」に、また文章を載せていただきました。
http://pokan00.blogspot.jp/
よくこんなすごいのつくれるなー、と、これまたシンプルに驚いてしまう、すばらしい出来栄えの本です。

わたしは書物の表題に恍惚となるのです

たぶん、9月になってから一度もエアコンを稼動させてない。扇風機はもともと使っていないので、自然の風だけで生活できている。こんな当たり前のことがありがたく感じられる今年の夏も、もう終わりだ。

8月の終わりに、京阪特急内で忘れた日傘が、本日無事手元に戻ってきた。梅雨になる前に購入した麻の日傘で、とても気に入っていた。改札を出て手元にないと気がついてすぐ駅長室に行きその旨申し述べたところ、傘の特徴を詳しく聞かれた。とにかく1万2千円もしたんですよね、と食いつくように言ってみたのだが、値段まではけっこうです、と冷たくあしらわれた。何でもすぐ金の話にしてしまう癖、何とかしなくては。

今回は無事、淀屋橋駅で確保された。思い返せば今まで一体何本の傘を、四方八方あちこちに忘れてきたことだろう。それらは「忘れ物市」などで、善良な方々の手にきちんと渡っているのだろうか。わたしが持っている持ち物は、いつまでが自分のもので、どこからそうでなくなるのだろう。

テアトル梅田で『夏の終わり』を観て、持ち物のことを何となく考えた。人の心は持ち物には出来なくて、そうである以上、約束も確約もないし、安らぎも信頼も、所詮、砂上のものでしかない。最後まで答えを口にしない小杉は確かに優柔不断でずるいけど、答えのなさに助けられてるのもまた真実で、それは愛じゃなくて習慣だ、という台詞があったような気がするけど、習慣と愛はもしかして表裏一体なんじゃないの、それは失くしたときにはじめてわかるかも、とかいろいろ思って、まあまあ楽しかった。
何でこの映画がこんなに人気があるのか、満席状態で観て、映画館にギュウギュウ詰めに人がいるのは久しぶりに見たせいか、なんだか気持ち悪くなった。年配の方が多いのは寂聴人気かと思っていたが、綾野某という人もたいそう人気があるようで、私の後ろの席の人は、思っていたより出演シーンが少ない、とぶつぶつ文句を言っていた。
コロッケを袋から出す音、それをかじる音、ビスケットを食べる音、絵をナイフで切り抜く音、男と女と猫の鳴き声、それに何と言っても雨音、などなど、音が印象的な映画だった。丁寧な質感で、小品ながら佳作だと思う。

岩城けいさようなら、オレンジ』を昼ごはんと晩ごはんのときに読んで、さっき読了した。久しぶりに前向きな小説読んだ。すごい!きょうは満員の映画館に行ったり、力の湧いてくる小説読んだり、普段しつけないことをした。こんな日もある。
これに比べて、この前に読んだ『ヘミングウェイの妻』には、腑抜けのような状態になった。相手に心を残した状態で、好きなままの状態で、誰かと別れた経験のある人は、この小説を読むことで、その時の自分の心理状態をもう一度丁寧に丁寧になぞりなおすことになる。もしも傷口がふさがってなかったら、そこから血が溢れて大変なことになるから、読むのはやめたほうがいい。喪失感がぐわっとやってきて、打ちひしがれる。誰かと別れるってことは、その人だけ別れるわけじゃないから、その時間ごと全部、においや景色や空気や声や何もかも全部、持って行かれてしまうから、その空洞ともう一度、向き合わされる。

今はグスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』を、心静かに読んでいる。

美しき混乱

最近、ビールはアルコール飲料じゃないんじゃないかと思うようになった。飲んでも飲んでも酔わないから。世界が歪まない。本当にサッポロ黒ラベルなのか?瓶を確かめても間違いなくて、ウイスキーや日本酒に切り替えると、気分は少し浮き立ってはくるのだが、やっぱり世界は歪まない。酔うってことがどういうことなのか、よくわからなくなってきた。
でもあれかなあ、正気と酔いの境目がなくなってきてるってことかなあ。ないまぜになって、すべてが狂っているのか。

夕方、四ツ橋筋を南へ下り、懐かしい本町へ。歩いて帰るの、やっぱり楽しい。街行く人たちも、暑そうだね。汗を拭いたり、扇子を振り回したり、夏とたたかってる。でも信号待ちで会話している人たちや、居酒屋で乾杯している人たちは、なんだか楽しそう。そういうのを目にすると、明日もいい日になるんじゃないかって、なんとなく思う。
空気は湿っていて、それでも天気予報を見ると乾燥注意報が出ているのが不思議で仕方ない。この街の、どこが乾燥しているというのか。空気がお湯を含んでいる。
しかし雨はたぶん2週間ほど降っていなくて、空を見れば東のほうが暗くなっていて、雨雲なのかなと期待してみたけれど一滴もふらず、ただ日が暮れてただけだった。

昼休みは、深澤さんと津村さんの対談本『ダメをみがく』を読んでいた。なるほどね、と思うけど、それは当たり前で、これはわたしのような、「ダメ」を磨きすぎて黒光りしているような人間が読むよりも、人生を真摯に生きすぎていて、えー、もうちょっと力抜いたらどうよ、と思ってしまう人たちに届いてほしいんだけれど、そういう人たちにはきっと読まれていなさそうで、それがとてももったいない。たぶん、ダメじゃない人が読んでも、何のことかわけわからんかもしれない。

どこかで映画を1本みて帰りたい気分だったけれど、東急ハンズ等で日常品の買い物などして、高島屋で食料を仕入れて、帰宅。牛肉と玉ねぎのすき焼き風、トマトときゅうりのサラダ、アボカドと海老のサラダ、でビールとハイボールとワイン。
人間ドックも近いけど、だからなんだっていうのだ。再検査になっても絶対病院にいかない者に、人間ドックって何の意味があるんだろう。

この後は、週末に天神橋筋の古本屋で仕入れた岩坂恵子さんの『台所の詩人たち』(岩波書店)を読もうと思います。それからポーラ・マクレイン『ヘミングウェイの妻』(新潮社)も、楽しみだ。一日36時間くらいほしい。

わたしの瞳にとどまるならば

6月1日。
入梅してから6月になった。朝晩はけっこう涼しく、窓を開け放っていると、手足が冷たくなってしまう。
きょうは夕方に、少しだけ雨が降った。会社の窓際の席に座って帰り支度をしているとき、ぽつぽつと窓に雨粒が当たって、そのまま下に目をやると、横断歩道を渡る人々が、思い出したようにゆっくりと傘を広げているのが見えた。雨の季節がきた。
帰り道、いつもと違う道を歩いてみようと、新しくなった中央郵便局の前を通って、JRの高架下を抜けて、ヨドバシカメラのほうに抜けた。人だかりがして、大きくて新しいビル群を屋台のようなものと、人工の水路がグルグル取り巻いているところがあり、たいへん賑やかだと感心し、ああこれがグランフロント大阪というものか、と思い至るまでに、数分かかった。中に入ってみようとはさらさら思わなかったけれど、そこにいる人たちはたいへん楽しそうに見えた。みんな笑っていたし、中には真剣な顔をしている人もいたけど、一生懸命真剣そうだった。それぞれ、何かを食べたり、何かを買ったり、何かを眺めたりしていた。わたしたちは遊び道具がほしいんだろうか。新しいのに、既にもう何度も見ているような光景に思えるのは、なんでなんだろう。
さらにぶらぶら歩き、地下鉄に乗る前にブックファーストで『バベルの図書館』の第5巻、ドイツ・イタリア・スペイン・ロシア編を購入した。もう本を買う時に、値段が高いとか安いとか、重いとか軽いとか、読みやすいとか読みにくいとか、あんまり思わなくなった。アラルコンやパピーニが読めるのがたのしみだ。
近鉄百貨店で白ワイン2本と店のおばちゃんに勧められて豚角煮とじゃがいもの煮たのを買った。自宅で人参を刻んでサラダにして、冷奴と、ツナにキムチと葱とごま油をかけたものを作って食べた。何を食べても美味しい。

6月5日。
きのうは午後から6時間、講演会やら勉強会やら会議があり、何でわたしがそんなことをしなくてはいけないのかさっぱりわからないのだが、50人くらいのおじさんの前で喋らないといけなかったりして、すごく面倒くさい日で、夜はその打ち上げみたいな飲み会があり、それは準備やら後片付けなどで煩わされたわたしやその周辺の人々への「慰労会」という名前がついているようなのだが、会社で催される飲み会に慰労されることはありえないのであって、たださらに疲労が積み重ねられるに違いないけれど、まあきっとお金は取られないのだろうとタカをくくってひたすら呑んでいたら帰り際に、じゃひとり2千円で、などと言われたので、ひっくり返りそうになった。
サッカーの日本代表がW杯出場を決めたそうで、居酒屋はそのテレビ中継で盛り上がっていた。しかし、それはわたしには特に関係がないことだ。
これは4日の出来事だった。
5日はお休み。午後より難波へ出かけ、『イノセントガーデン』を観た。話の展開だけじゃなくて、いつも階段で何かが起こるところと、一から十まで緻密に計算された撮り方もヒッチコック。罪とはある意味「またぎこす」ことだ。向こう側を覗き込むのは恐ろしいけど、これほどの甘美さもない。監督はそのことを良く知ってる。観たことないけど『オールドボーイ』も観たくなった。借りてこようかな、でもツタヤの会員証、どっかいっちゃった。
夜は、天王寺にある、お気に入りの居酒屋で飲む。肴はどれも美味しくて、びっくりするほど安い。
帰ってから、『荷風俳句集』を読む。

生きていたくもなければ、死にたくもない。この思いが毎日毎夜、わたくしの心の中に出没している雲の影である。わたくしの心は暗くもならず明るくもならず、唯しんみりと黄昏て行く雪の日の空に似ている。

永井荷風のこういう文章を読むと、『グレートギャッツビー』のニック・キャロウェイのことを思う。
過ぎていく一切を、ただ眺めている。

希望は地上の路のようなものだ

昨日の夜中に、東京から帰ってきた。歩きすぎて硬直した足を風呂でほぐしてすぐに寝て、そのまますぐ朝になった。
寝たらすぐに朝になる。子どもの頃は不思議だった。どうして寝たら次の瞬間はもう朝なの?なんでこんなに早く時間が経つの?寝ている間も生きてるっていえるの?
どれも無邪気な質問だけど、今もわたしは、あの頃の自分に、答えを出してあげられない。

珈琲をいれてトーストを焼き、「アントニオ・ロペス展」の図録を広げ、もらってきたフリーペーパーをひっくり返して眺める。渋谷駅の近くの古本屋(店名忘れた)で買った、ロラン・バルト『彼自身によるロラン・バルト』(みすず書房)を読んで、大好きな桂南天さんのラジオを聴いていたら、あっという間にゴミ収集車が来て、ということは10時半になったということで、休みの日の朝の時間は、緩やかに流れていく。

自分に注釈を加える?なんと退屈な!私にとって唯一な解決法は、自分をー遠くから、きわめて遠くからーこの今という時から、≪ふたたび書く≫ことであった。しかも現に私の書いているものがはたして自分の過去についてなのか現在についてなのか、まったくわからないままに。

美容室に電話したら予約が取れたので、日傘を差して出かけた。日焼けするしないは最早どうでもいいが、日差しがきつすぎるのでせめてそれをさえぎりたい。ipod細野晴臣の新譜≪Heavenly Music≫を聴く。昨日、新幹線に乗る前、東京駅の地下にある小さなタワーレコードで買ったのだ。細野さんは強くて優しくて、クールでかっこいいなあ、としみじみ思う。ブックレットに挿入されている写真や文章もとても良い。

可能性というものはどれかを選ぶまでは無限の選択肢があるのだ。可能性自体が無限だ。無限ということは、まだ何もやってないということだ。

そう、まだ何もやってない。11曲目の≪I Love How You Love Me≫、リピートして数回聞いてしまった。
遠くにいても、僕を優しく気遣ってくれる そんな君の愛し方が好き

髪を切ってさっぱりして、カンカン照りの長堀通を歩く。たぶん30℃は超えていると思う。昨日の東京も暑かったけれど、こっちも相当だ。まだストーブ出したままなんだけど、歩きながら途方に暮れる。毎年言ってるように思うけど、ストーブしまうには灯油使い切ってしまわなきゃ。というわけで、帰宅してからストーブをつけ、その上でミネストローネスープをことこと煮た。窓開け放ったけど、暑くて死ぬんじゃないかと思った。

日が沈んでから、ショッピングバッグ持ってまた出かける。図書館のポストに静かに小川洋子『ことり』を返却。これもとても良い小説だった。静かで、孤独で、愛に満ちていた。文庫化したらぜひ再読したい。
近くのお店で牛乳と卵、シャンプーを買って帰宅したら、ラジオで下柳が喋っていた。わたしの弱点は野球とラジオ。正座して聴きたい。

夜になって風が少し涼しくなった。明日からまた仕事だ。もうめんどくさくなってきたなあ、仕事の仕方、忘れたかもしれない。今夜は『灰色の魂』を読んで寝るとしよう。