なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

われもまたその如く走らんと

この秋、初めて、酒を燗して、秋刀魚の焼いたのを食べる。燗酒はいつ飲んでもお正月の味がする。そういえば、もうすぐ、また、正月だ。
しかし、ラジオでは野球をやっている。ABC朝日放送の解説は岡田彰布。話すときこれほどまでに、「だから」という接続詞を使う人も珍しい。時々いいことを言うのだが、なかなか伝わりにくい。それにしてもGはいったい、何をしてるんでしょうね。
人生の終わりまでにいつか、野球に興味がなくなる日がくるのだろうか。少し、そんな日が待ち遠しいような気がする。

きょうは、夕焼けがしみじみきれいな日だった。来週の発表会の打ち合わせをしているとき、会社のミーティングルームの窓から、橙色の空とグレーの雲ををかすめて伊丹空港におりて行く、旅客機をいくつも眺めた。滲んでいくブラッドオレンジと高い空。ねえ話聞いてんの、と上司に何度も言われた。聞いてますよ、と答えたけれど、本当は何も聞いていなかった。ずっと違うことを考えていた。
待ち合せはいつも夕方だった。今でも西の空は、あのとき新宿で眺めた空と、何も変わらないように見えるのに。

なにしろ私は中央線が高架になっていることすら忘れていたが、その見上げるような高架線に沿って、いかにも中央線らしい匂いのする、小ぢんまりとまとまったスマートな商店街があり、都丸書店というのはもう閉まっていたが、短い町筋の中に、他に二軒も古本屋があった。その一軒へ入って、私は手当たり次第に六千円ぶんほど本を買った。ペペル・モコという珈琲屋でコーヒーを飲んで帰った。私はなんだか、人間の一生などといっても知れたもんだという気がした。五十年の私の歳月にはずいぶんいろんなことがあったようで、しかし、それらはすべて、高円寺から高円寺までひと廻りしてくる輪の中にあるような気がするのであった。

台風の体育の日、本棚の整理をしていたら、洲之内徹の本を発掘して、何だかすごく久しぶりのような気がして、今日までとっかえひっかえ読んでいた。引用したのは『セザンヌの塗り残し』の中の、「いっぽんのあきビンの」という中にある文章で、私が洲之内徹を読むのは結局、こういうくだりに共感するからなのかもしれないと、つくづくおもうのだ。
これも百冊入りだったな、と今更ながら後悔するんだけれど、今選んだらまた全然異なる百冊ができた気がして、あれは未来永劫、永遠に繰り返せるような、贅沢な選択だった。

今日は、友人が誕生祝いに、と言ってくれた、『ドミトリーともきんす』を読んだ。わたしの誕生日は3月で、このプレゼントは、遅れてきたものなのか先取りなのか、聞きもしなかったからよくわからない。
友人とは木曜日の残業あとに北新地で待ち合せし、やきとんを食べに行った。夏になる前に亡くなった友人のお父さんのために、わたしは線香を渡した。線香は慎ましやかな香りがし、脂にまみれたやきとんの店には、あんまり似合わなかった。友人のお父さんとは、一緒に甲子園にも行った。わたしと友人の前の席に座り、メガホンを片手に、広島時代の江夏みたいな髪型をして、ビールを飲んでいた後ろ姿のことを、今もしっかり覚えている。
その日は、ビールや焼酎をぐびぐびと飲んで、友人がバリウムを飲んだ後、便がなかなか出なくて、やっと出たとおもったらその便が便器の底に固まってトイレの水が流れにくくなり、とうとう業者を呼ぶに至ってしまった、という話を延々1時間ほどもし、わたしは今月初旬に受けた大腸内視鏡検査における顛末を、同じように1時間ほどは語ったのだが、世の中にはいろんなどうでもいい会話というものがたぶん無数にあるだろうけれど、あの日のはその極北に位置するものではないかと、しみじみとおもう。

本日、阪神は勝つのかどうなのか今もまだよくわからないけれど、秋深まった甲子園もまたいいものかも知れず、あの世というものがあるとして、今頃少しほくそ笑んでいる人が、いくらかいるような気がする。

まるで見えないふりをして

9月23日、秋分の日。
玄関を開けると西側に見える寺の墓場がいつになく華やかだとおもってよく見ると、ほとんどの墓が赤や黄色、白に紫の花に彩られている。花の名前はわからない。いつもに増して、お参りの人が多い。線香のにおいと読経の声、烏もうろうろしている彼岸の空は、すこんと抜けたブルーだ。

黒川創の『国境』(河出書房新社)を携えて、梅田から、姫路行きの阪神電車に乗る。三宮を越えて、海と山にはさまれつつ、すすんでいく景色がとても好き。梅田から姫路まで、約1時間40分はかかるけど、残りの1時間くらいは、ほとんど本から顔をあげて、窓から外を見ていた。

電車がトンネルを抜けて外に出ると、車内に光が溢れる。暗闇と光が交互にあらわれるたび、昨夜、映画館で観たばかりの侯孝賢『恋恋風塵』のことを思い出す。『恋恋風塵』は、ほんとうにほんとうにほんとうに、素晴らしい映画だった。最高の109分間だった。もともと『郊遊』か『物語る私たち』を観るつもりで行ったシネ・リーブルだったけど、『恋恋風塵』があと30分後に始まるって知って、すぐに予定を変更した。行き当たりばったりの人生には、こんな幸運も隠れている。
スクリーンを越えて、風が吹いてくるような、波が打ち寄せてくるような、緑がにおってくるような画面だった。わずかな灯りのもと、大切な人に宛てて書く手紙。その手紙は、やがては届かなくなってしまうんだけれど、ラストのおじいちゃんとの畑のシーンがあまりに神々しくて、返事はかえってこなくても、おもいはきっとのこり続けるのだと、不意に胸に落ちた。伝わらないわけないって。

そんなことを思いながら歩く姫路の街。姫路城は相変わらずまぶしい白だったが、改修中らしく、クレーンに囲まれていた。
姫路市立美術館で、米田知子の写真展を観る。『暗なきところで逢えれば』。ずっと楽しみにしていた。黒川創とのトークショーの日に来れなかったのは残念だったけど。

子どもの頃、心霊写真のテレビ番組が好きだった。後ろに誰もいないのに肩に手がのってたり、膝から下の足がなかったり、木の中に人の顔が見えたり。家で独りでテレビを観ていても全然怖くなかった。そう見えるだけやん、そういう風に見たくて見てるだけやんとおもっていた。
この場所はこれこれしかじかの事件がありその怨念が…、などと、心霊研究家とかいう人がよく言っていた。怨念とかいうことで言えば、米田知子が撮っている場所はそんなんばっかりだ。暗い記憶がまとわりついている。米田知子のどの写真にも、空に浮いた手や顔は、写っていない。しかし、昔、テレビで見てた「心霊写真」なんかより、ずっとずっと怖い。怖いというか、戦慄する感じがする。そこには映るべきものしか映ってない、しかし、心がのこっている。慕わしいおもいも邪悪なおもいも、すべてひっくるめて、そこにのこっている。それは残された者が知っている。
今は野球場になっている、知覧の特攻出撃の基地跡の写真、『闇のあとの光』で男が自分の首を切り落とす広場と、何だかとてもよく似ていた。

阪神電車は魅惑的だけど、大阪まであまりに時間がかかりすぎるので、JRで帰ることにした。『国境』は、100ページくらい読めた。梅田ホワイティの「ルージュ・エ・ブラン・コウハク」というワインバーで、白ワイン飲んで帰る。仔牛のステーキ、大根のボルチーニ茸ソース、ハマチの香草パン粉焼き、シーザーサラダ、フレンチフライポテトなど。店内の音楽は少々うるさいけど、美味しくて安い。18時までに入店すればワインボトル20%引きというのが、うれしいけど飲み過ぎるので困る。

帰宅して常備菜つくり。マカロニサラダにきんぴらごぼうに、こんにゃくのピリ辛煮。涼しくて窓を開けていられない。線香のにおいはもう消えていた。

蒼白なる両頬に

昨夜、電車を乗り過ごした。ビール1リットル、ハイボール500ミリリットル、赤ワイン1本飲んでいたけど、そんなに酔ってる感じはしてなくて、もうすぐ読み終わるアンダソン『ワインズバーグ・オハイオ』を開いてもちゃんと文章が頭に入ってきたから、きっと大丈夫だろうと、開いた席に座ったのが運のつき。眠気がずっこんとおりてきて意識を失い、気がついたら八尾だった。文庫本の『ワインズバーグ・オハイオ』はかわいそうにも、わたしの足下の靴の横に落とされて、平べったく広がっていた。

時刻は0時前で、当然のごとく北へ戻る電車はなかった。駅前はがらんとしたバスターミナル、もうどこへも行かないバスが点在しているだけ。一緒に改札を出た人々は帰るべき場所があり、確信をもってどんどん遠ざかっていく。わたしにも帰る場所は一応あるのだが、そこまでの道がわからない。ここはいったいどこなんだ。

タクシーで帰り着き、顔を洗って歯を磨いて寝た。今朝、『ワインズバーグ・オハイオ』を開いたら、挟んでた海文堂の栞がなくなっていた。車庫に入った地下鉄の床に一枚落ちている、海文堂の栞のことをおもってみる。地下鉄の忘れ物窓口に電話して聞いてみたらいいだろうか、昨日の終電の1両目か2両目に「KAIBUNDO」と書いた青い栞が落ちていませんでしたか、大切な栞なんです、もう手に入れることはできない栞なんです、と言えば、探してくれるんだろうか。
失うものばかりで困るな、と、くるりが新譜で歌っていた。本当にそうだ。『気のせいだろう 何だかあきらめそうになるよ 失うことばっかりじゃないのに』

昨日の昼間は、久しぶりに映画を観た。大阪歴史博物館の講堂で溝口健二『浪華悲歌』。そごうでの買い物や地下鉄のシーンがいいのはもちろんだけれど、社長夫妻が揃って登場する場面に、今回はなんだか心惹かれた。寝坊してきた妻が、飄々とした表情でとる朝食のシーンとか。ぽりぽりぽりぽり、あれは何を食べてるんでしょうね。トーストか?
映画の後は、「特別展 村野藤吾 やわらかな建築とインテリア」を。建築もさることながら、なんといっても椅子とか傘立てとか衝立などの、家具がすばらしい。優雅な曲線が見事。それと、外国にいくたび、孫娘たちにと選ぶ、お土産のワンピースやおもちゃのセンスの良さ。審美眼が優れている。
建築のことを考えると、人ばっかり観察していないで、もっと大阪の街そのものをしっかり見て歩かないといけないなあと、しみじみおもう。

9月にしたことで、書いておきたいこと、本当はあるんだけれど、どう表現していいかわからないのでやめる。声をかけられなかったのは、たぶんわたしが逃げすぎるから。忘れられてることをわかるのがこわかった。思い出が特別なものじゃなくなるのがこわかった。またはじめるのもこわかった。ドキドキするの、久しぶりだったな。祈るみたいな気持ちになるのも。忘れてるのはわたしのほうなのかな。
今度のくるりの新譜には、元気でいてくれ、元気かな、変わらないでいてね、というようなフレーズがよく出てくる。元気でいてくれー、本気でそうおもう。また会えるよね、そのときは、きっと声をかけよう。

ゴールはあるが、道はない

今朝も5時に起きて、洗濯機を回し、その側に椅子と淹れたての珈琲を持ってきて(何故なら洗濯機横は風が南から西から入り、家中で一番涼しいから)、尾崎真理子『ひみつの王国 評伝石井桃子』(新潮社)を読み終えた。
数週間、朝の1時間くらいを使って読んでいて、朝に読むのにふさわしい本だったなあと思い返すとともに、幼い頃に読んだ数々の本、特に実家に置いたままにしてある「岩波の子どもの本」を強烈に読み返したくなり、それは図書館で借りたりするんじゃなくて、自分が読んでいた本そのものをどうしても手にしたく、実家へ帰ってきた。

母に、このクソ暑い中わざわざ帰ってこんでも言えば送ってやったのに、と言われたり、他にすることないのか、と言われたり、あほちゃう、と言われたり、なんかいろいろ言われたけれど、押し入れの中に「岩波の子どもの本」はちゃんとあって、字にならない「め」とか「かずみ」とか、なんかよくわからない丸三角な図形とか、色鉛筆の書き込み満載でぼろぼろの『アルプスのきょうだい』や「ふわふわくんとアルフレッド』や『ちいさいおうち』を開いていると、母も、懐かしい、いい本やねえ、若かったなああの頃、などと寄ってきて、二人で絵本を声にだして読み合うというような、普段は殺伐とした雰囲気がたちこめることも多いわたしたち親子だけれど、石井桃子さんのおかげで、「ほのぼの」としかいいようのないような、午後のひとときを過ごすことができた。

絵本5冊ほどと、『ムギと王さま』『たのしい川べ』なども携えその上、一日遅れのうなぎと、もらいものらしいメロンと、筑前煮やひじきの煮物などの常備菜を母がくれたので、バッグは途方もなく重くなり、指が赤く痛くなった。

『ひみつの王国』で好きなのは、『ノンちゃん雲にのる』が文部大臣賞を受賞し、その賞金で、神西清を案内役に、4人で浅草にストリップを観に行くくだり。どうでしたか?とストリップの感想を聞かれた石井桃子さんが「女風呂に入ってるような感じでございましたわね」と答えて、神西清が「そりゃそうだよね」と笑った、ってところ。

帰宅してから、大阪市内各地の商店街巡りを趣味としているF君が、文の里商店街で大量に買ってきてくれたヤングコーンをゆでて、醤油マヨネーズで食べた。美味しかった。ヤングコーンはわっさわっさと長く厚い皮に包まれているけど、皮をむくと手のひらサイズで、ほとんどがゴミになる。皮の使い道は何かないのか、と考えてみたけど、思いつかない。
F君にはお返しに、実家でもらってきたメロンをあげた。こうして物々交換していると、柴崎さんの『春の庭』を思い出す。あの小説でも、何度も、モノをあげたりもらったり、もらったものをまたそのまま誰かに渡したり、そんなことが繰り返される。もらいものはもちろんうれしいものだけではなくて、要らないものもある。でもそれは他のもうひとりをものすごく喜ばせたりする。誰かにとって不要なものは、誰かにとってのかえがえないもの。そんなことが書かれている物語で、賞をとってもとらなくても、そんなことはどうでもよいほど、すばらしいものだ。

ずっと楽しみにしていた『収容病棟』を、十三で観た。前編後編4時間。上映時間の長さが気にならないのは、撮影されている精神病院の中では、時間というものが意味を持たないせいなのか、はじまりも終わりもないせいなのか、とにかく、我を忘れてみている間に、4時間はすぐ過ぎる。
好きなシーンがいっぱいありすぎて困るほど。それに、まるで自分をみているみたいな瞬間もたくさんある。寝られない夜、寝られないことが辛くって、ベッドの上で起き上がったり寝てみたり、また起き上がってシーツを直したり、そしてまた寝てみたり。人恋しいくせに、素直になれなかったり。欲しいのに、要らないと言ってみたり。意味なくグルグル歩き回る、歩きながら考える、空を見上げて朝日を浴びる、人の食べているお菓子がおいしそうに思えて仕方ない、でも食べたらまずかったり。話すことはないのに誰かと話したい。病院から出て行きたい、でも、出て行ってもどこへも行くところがない。
後ろの席に座っていた女性2人組は、前編が終わった時に、もうあと2時間はしんどいわ、と言って後編を見ないで帰って行ったが、後編こそみなければならなかったとわたしは思う。それは後編のほうがよかったという意味ではなく(前編もめちゃくちゃ素晴らしい)、後編はカメラが病院の外に出るのだ、それは絶対に観た方がいい。病院の中も外も同じってことが、月夜の下、黙々と歩く男の背中を延々と撮っているシーンでわかるから。背中の映画でもある。
前編で帰ってしまった女の人にそれを伝えたいけれど、もう二度と会えないだろう。

雨水の鉄の矢にお前を刺し貫かせよ

 朝、起きたら、空が真っ青だった。そろそろ今年の梅雨も終わりだ。
 昨日は休日出勤していて、でもけっこう暇だったので、15時ごろから窓の側のデスクに陣取って、西の方角から雷雲が近づいてくるのをずっと見ていた。薄暗い雲の間から、黄色の稲妻が光って、まったく自然は圧倒的だ。見ていて飽きない。雨は激しく降って、まもなく上がった。 
 雨が上がってからは、2000枚ほどあるバラバラになった連番書類を、番号順に並べるという、非常にエキサイティングでやりがいのある作業をして退社した。こういうときに、働く喜びを感じる。単純作業はすばらしい。

 今日は、ひさびさのお休み、洗濯を3回して、本の整理と掃除をして、粗大ゴミにカーペットを出して、ポテトサラダとコールスローを作ってから、3時間ほど昼寝をして、洋服屋からの、予約をしていただいてたセーターが届きましたよ、という電話で起こされた。そんな予約をいつしたんだろう、このくそ暑いのにセーターとは、触るのも見るのも嫌なので、そのうち行きます、と言って電話を切ったら、窓の外はもう日が暮れかかっていた。急に心細くなった。

 そんなわけで7月はじめの頃の日記。

 7月1日(火)
 ずっと使っていたVAIOが壊れたので、Macを買うことにした。壊れたのかどうか知らないが、動かないので壊れたんだろうと思う。そこを突き詰めて追求するのは面倒くさく、もう10年も使ったのだからもういいだろうというような気持ち。
 今まで数ヶ月もこの日記を書かなかったのは、VAIOが動かなかったことが原因で、わたしが怠慢なわけではないんです。
 会社の帰り、夜になっても蒸し暑い御堂筋をズンズン南下してapple storeに入って1分で何も迷わず、これください、とMacBookを指差したせいか、店員は、ええっもう買うんですかと、本当にびっくりしていた。こういう客はよっぽど珍しいのか、少しご説明いたしましょうか、などと言っていたが、説明などどうでもよいので、梱包してもらって、黒門市場に寄って、刺身と豆腐を買って、家にかえった。近所の神社で祭りがあって、見知らぬ浴衣姿の人々がうろうろしていて、綿菓子とか持って、何だかみんな楽しそうだった。わたしは、とにかく暑くて、お腹がすいて、ビールが飲みたくてたまらなかった。

 10年ぶりくらいに開くMacはやっぱり使いやすくて、買ってよかった。
 Macを手に入れてからも数日日記を書かなかったのは、やっぱりわたしが怠慢なせいかもしれない。

 届いた『みすず』7月号を読む。

 7月2日(水)
 十三で『闇のあとの光』を観た後、難波周辺をうろうろして、ジュンク堂でルイジ・ギッリ『写真講義』を手に取って、本全体のつくりが美しすぎて、こりゃあ辛抱たまらん、という気持ちのまま、レジに直行、買ってしまった。まったくみすず書房には、毎月毎月、やられっぱなしだ。
 その後、引き続き日本橋をうろうろして、最近時々のぞく中古DVD屋で、『永遠のモータウン』と『美しき諍い女』を発見した。この店では好きな映画のDVDをものすごく安価で見つけていて、時々のぞくのだが、この前は、アダルトの部屋から、マンションの上の階に住む家族の、旦那の方がひとりでのっそり出てくるのに出くわして、挨拶しないほうがいいのかなと思ったけど、ついいつもの癖で、こんにちは〜、と無邪気に言ってみたら見事に無視されたという一件があり、いろんなものを発見するのもいいけど、まあ善し悪しだなあ、と思ったりした。アダルト観たっていいじゃないか、こそこそしないで堂々と生きろ。

 久しぶりに観た『永遠のモータウン』には、やっぱり泣かされた。この映画に出てくるミシェル・ンデゲオチェロが、優しくて力強くてかっこ良くて可愛くて、本当に素晴らしいのだ。

 7月8日(火)
 東大阪で打ち合わせ、その後、夜は会食。面倒だ。何が面倒と言って、人にビールを注いだり、注がれたりしなければならないこと。うまい酒は手酌に限る。でもまあ会食で酒の旨さをどうこう言っても仕方ない。
 この日は、とにかくひどい湿気でありながら風がビタとも吹かないサウナ状態、同行していたK本さんが、一緒に歩いていたのにどんどん遅れていくので、大丈夫ですかあ、と振り返ったら、お風呂上がりかと思うほど全身グタグタに汗をかいていて、かわいそうになって、ドトールで休むことにした。
 K本さんが、店で一番冷房のきいた席でぐったりしている間、私は、カフェオレをすすりながら、買ったばかりの『群像』8月号を読む。『群像』は滅多に読まないのだけれど、一挙掲載された多和田葉子さんの『献灯使』を早く読みたくて。でもすぐ読むのはもったいないので、しばらく寝かせ、とりあえず、特集『個人的な詩集』を読んで、これもけっこう楽しんだ。

悩み忘れんと 貧しき人は唄い
せまい露路裏に 夜風はすすり泣く
小雨が道にそぼ降れば あの灯り
うるみて なやましく
あわれはいつか 雨にとけ
せまい露路裏も 淡き夢の町 東京

 サトウハチローの『夢淡き東京』の一節。いいなあ、としみじみしていたら、隣の席で珈琲をすすっていたおばちゃんが、急にバッグから巻き寿司を取り出して、食べ始めたのには唖然とした。透明パックに入った巻き寿司、全国津々浦々のドトールに行ったが、巻き寿司食べてる人は初めて見たなあ、やっぱり東大阪ワンダーランドやな、と思っていたら、汗から復活したK本さんが、ほなそろそろ行こか、というので、席をたった。
 会食は21時には終わり、近鉄電車に乗って市内に帰った。近鉄奈良線沿いの外の景色が妙に新鮮で、見つめ続けていたらすぐ地下に入ってしまった。また近鉄電車に乗って、どこかに行きたいものだ。

 お腹が空いてきたので、今日はここまで。今からとん平焼きと冷奴で、ハイボールを飲もう。

語られなかった物語を

雨が降っている。絶え間なく天から水が強弱つけて落ちてくるなんて、よくよく考えたらものすごく不思議な現象だ。誰もなんとも思わないんだろうか。何も言わずに傘さして歩いて。天気はすごい。水は木をぬらし、土を湿らせ、道にたまって、どこかへ流れていく。
早朝は空に靄がかかっていて、カーテンを開けて窓から見える景色はほとんどミルク色だった。数メートル先もよく判別できなかった。ゴミをまとめて出し、珈琲をいれて、朝刊を読む。本日はベートーヴェンの命日らしい。いつも誰かの命日であり、誕生日であり、記念日であり、特別な日なのだ。

3月の日記を。

8日(土)
晴れて、キーンと寒い。今日から十三で『ウォールデン』がかかるのだが、仕事のため行けず。今週は残業、春闘、送別会と、考えるだけで憂鬱が束になって押し寄せてくるような予定で埋められていて、メカスにはお目にかかれそうにない。無念である。責任感と義務感と常識を、まるめて捨てたい。
18時すぎ、仕事を終えて、中之島をふらふら散歩気分で歩き、中央公会堂でやっている古本展に行ってみる。映画がだめなら古本を。何となく棚を眺めていたら、ポール・セロー『中国鉄道大旅行』(文藝春秋)があった。『緑の光線』のパンフレットも買えたし、寄ってよかった。20時まで開いているというのもうれしい。
会社帰りに欲しかった古本買って、晩ごはんの献立を考えながら歩く夕刻が、当たり前に存在する毎日を、やっぱり大事にしなければなあと、心から思う。

14日(金)
冬に逆戻りの凍える一日、18時半から会社のボウリング大会があった。ボウリングもどこが面白いのかわからないスポーツ(スポーツなのか?)のひとつだが、何となく、参加しないといけないのかなあ、という同調圧力にも通じる感情に後押しされて、仕方なく行った。

一応、ボウリングに対する気分を高めるために、堀江敏幸の『スタンス・ドット』を読み返した。これはボウリングというよりも、「音」についてかかれた小説だなあ、巧いなあ、とあらためて思った。次に、DVDで、素晴らしいボウリング映画であるところの『ビッグ・リボウスキ』を観てみた。ボウリングシーンのジョン・グッドマンジョン・タトゥーロには魅せられるものの、あのような濃いパフォーマンスができるはずもなく、フィリップ・シーモア・ホフマンが出てくるシーンを観ては、もういないなんて信じられない、なんでいないんだ、なんでこんなことになったんだろうと、やっぱりそのことばかりを考えてしまい、なかなか冷静になれない。いつかどこかで、この気持ちは立ち直るのか。どうやってやり過ごせばいいのか。

ボウリングは、例えばT次長のように、シャツを巻くりあげ、足を上げて妙に張りきったフォームで、強く早くまっすぐ投げたからといって、ピンが全部倒れることはなくて、ころんと1本か2本、さみしく残ってしまうのに、TちゃんやOちゃんが、いかにも重そうにボールを抱えて、トコトコと小股でレーンを歩き、エイッて感じでぼとんと、ごろんと投げたひょろひょろのボールが、ゆっくりゆっくり走って、ピンが10本ともドミノ倒しみたいにパラパラパラーと、優雅に全部倒れてしまって、キャーンなんて、文字通り「黄色い声」を上げて喜び、次長よりずっとよいスコアをたたき出しているのを見ていると、人生のままならなさ、というようなことに思いをはせてしまうスポーツ(スポーツなのか?)だ。

ストライクを出した時のピンの倒れる音に耳をすませてしまうのは、確かに『スタンス・ドット』の影響で、やっぱり読み返してよかった。2ゲームやって、180点くらいだった。とにかく終わってよかった、居酒屋で、夥しい量のお酒を呑んで帰る。

他人の夢を眠る

アメリカ合衆国が国をやめることになり、ラジオからオバマ大統領の演説が流れた。国をやめる、というのがどういうことなのかよく意味がわからないが、オバマは、非常に残念だがこうなった以上は仕方がない、というようなことを沈痛な声で語っていたので、きっと残念なことなんだろう。外は隅から隅まで晴れており、窓の外にはうちのマンションからは見えるはずのない生駒山がくっきり眺められた。じっと見ていると、オバマの演説が終わった途端に山頂から、シルバーのシャープペンシルみたいなミサイルが5発、東の方角に向けて放たれた後、一転にわかにかき曇り、紫色のでっかい雹が天からいっせいに降ってきた。

というのが今年の初夢。実に暗示的かつ祝祭的で、なんかよくわからんけどたぶん、映画の予告編の見すぎだと思う。

1日。
午前8時目覚め、寝床で1時間ばかりフランソワーズ・エリチエ『人生の塩』(明石書店)を読む。「生きているというそれだけのことの中にある何か軽やかなもの、優美なもの」、人生における「いくつかの感動や、小さな楽しみ、大きな喜び、時には深い幻滅や苦悩」、「個人的な、長く心に残っている思い出」をがんがん書き出すリストの集積。まるで詩を読んでいるような気持ちになる。

アイスクリームやチョコレートを思いっきり食べる。好意をもたれていることがわかっていて、その人に見つめられ、耳を傾けてもらうひととき、朝寝坊をする、釣り船に乗る、職人の仕事を見ている、香具師の口上に足をとめる、大道芸を楽しむ、何十年も会っていなかった友達に会う、他の人の言うことに本気で耳を貸す・・・

このように延々続く。

ハンフリー・ボガードみたいに形而上学的にピストルをもったりしてみたいと思う。『明日に向かって撃て』『キッスで殺せ』『縮みゆく人間』『海賊大将』『ダブリン市民』をもう一度観る。『ロバと王女』で主演のカトリーヌ・ドヌーヴの着ているドレスに見とれる、ティルダ・スウィントンの芸術的なプラチナブロンドの髪に憧れる、私には何も理解できなかった発表を聞いた後、クロード・レヴィ=ストロースからいきなり何か言うことはあるかと問われた日、その場で死にたいと思った。

好きな映画やそのシーンをあげつらったかと思うと、急に昔の思い出が蘇り、赤面したりする。
自分の「人生の塩」リストを、真似して作ってみたくなる。酒がらみばかりになりそうな予感がするけど…。

昨日、食べそびれた蕎麦を茹で、にしんをのせて食べる。年越しちゃった蕎麦。煮しめと黒豆と数の子とかまぼこで白ワインののち、ぬる燗。外は晴れたり曇ったりしている。洗濯もちゃんとして、掃除機もかけた。これも人生の塩、である。

2日。
映画を観に行く。今年もスクリーンでたくさん映画を観たいなあ。そのためにはなんとしても残業を減らさなければならない。もともとわたしは残業を憎む人間なのだ。2014年の目標は「明日できることは明日やる」。絶対にがんばったりしない。

コートを羽織って、小銭と携帯電話だけもって、バッグも持たずに難波に出かけ、『鑑定士と顔のない依頼人』を見た。近所にふらりと映画観に。これだから都会暮らしはやめられん。

苦い結末、などとどこかにレビューが書いてあったけど、ハッピーエンドだったので驚いた。ジェフリー・ラッシュ演じる鑑定士は確かに全てをなくしたが、ずっとはめていた手袋を取ることができた。髪の毛を振り乱して、自分自身以外のもののために、奈落の底に落ちることができた。手袋を取れないまま、髪の毛も振り乱さないまま、一生を終える人もたくさんいる。それがどれほど甘美なことか、気もつかないまま。
ひとつの世界をなくし、もうひとつの世界に生きる。偽でも真でも、どちらでもいい。自分が真だと信じればいい。信じると決めればいいのだ。何度も何度も反芻して愉しめ。思い出だけでも、たぶん、ごはんは食べられる。
ドナルド・サザーランドを久々にスクリーンで観た。久しぶり〜、どうしてたん?って、声をかけたくなった。渋くて、良い役だった。

街にはたくさんの人がいた。でも御堂筋を超えて、堺筋松屋町筋、と東へ東へと進むと、どんどん人がいなくなって、ゴーストタウンみたいになるところが、お正月の良いところ。とっぷり暮れた道を、コートのポケットに手をつっこんでテクテク歩く。坂道を上がって、降りて、それでも猫にしか出会わない。
帰って、野菜の天ぷらを揚げて、揚げたて天ぷらで今年初のビールを飲んだ。ビールは冷たくて、身体によく沁みた。