なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

君が恋しくて

午前6時、布団から抜け出して、壁にかけてある温度計を見たらマイナス2℃だった。一応、オイルヒーターつけてるんだけどな、と思いつつ、マッチを擦ってアラジンストーブに火をつける。窓の外は夜のように暗く、黒い空の下、寺の鐘の音が響いていた。また今日という日がやってきたよ、と諦めみたいな気持ちになりたくない。

幸せなときは不思議な力に守られてるとも気づかずに
でももう一回と願うならばそれは複雑なあやとりのようで

雨が降ってきそうだったけど、歩きたかったので会社まで歩くことにした。案の定、堺筋にさしかかった頃から横なぐりの雨が、四方八方から降りつけて、傘をさすのもいやになった。コートもぬれたし、防水してないパンプスの先が、雨でしみたようになったけど、別にいいんだ。効率的になんか生きたくない。ぼろぼろになってもいいから、かっこ悪くても、どうでもいいことはどうでもいいと真っ正直におもっていたい。

そんなことの全て ぼくらが見た光
まぶしくて 生々しくて痛むよ とりあえず

昼休みは、先週から読んでいる保刈瑞穂『プルースト 読書の喜び』をゆっくり読む。プルーストのことや「失われた時を求めて」のことはもちろん興味津々だけれど、とにかく保刈さんの文章を読むだけで心が落ち着くし、本当にうっとりする。例えばアレサ・フランクリンとか、エリス・レジーナの唄を聴くと、ああもう一生この歌声だけでいいかも、と思ったりする。それと同じことが保刈さんの文章を読むとおこる。この文章を読めるだけで、題材や内容や意味は、二の次でいいや、って。

いつもいつも君が恋しくて泣きなくなるわけなんかないよ
思い出すたび 何か胸につっかえてるだけ

午後からは、つまらない会議があった。つまらないのに、なんだかんだと発言してしまう自分が、如才ない人間のようで嫌になる。そう、わたしは如才のない中途半端な人間なのだ。会議の進行役をつとめているSさんの背後の窓から、御堂筋のビル銀杏の木が見えていて、わたしの頭には小沢健二の『恋しくて』が回り続け、鳴り続ける。

先週の25日、羽田空港のロビーで珈琲を飲みながら何気なく見た携帯電話のニュースで、アンゲロプロスの訃報を知ってから、ずっと『恋しくて』が回ってるのだ。なんでかはわからん。
アンゲロプロスが亡くなったことを知ってすぐに、池澤夏樹はどうしてるやろう、どう感じてるだろうと思った。そう思ったら胸がつまって、これから飛行機に乗って伊丹まで帰ることも、自宅で出張でたまった洗濯をしたり、掃除をしたりすることも、何もかも現実感がなくなって、何度経験しても慣れないこの喪う感覚を、池澤夏樹はどう受け止めてるんだろうと思った。
日経と朝日に掲載された池澤夏樹の追悼の文章は、やっぱり思い切り切なかった。死は終わることではない。しかし、わたしはあなたのカメラを通して、もっと世界が見たかった。

ねえ、もうわたしたちからこれ以上、もう何も奪わないで。

それで何か思っても もう伝えられないだけ
そんなことの全て ぼくらが見た光
呑みこまれてゆく魔法のようなもの 待っている

夜になって、また一段と冷え込んできた。ネックウォーマーを鼻の下まで押し上げて、坂道をゆっくりあがり、マイナス2℃か3℃の部屋に帰る。