なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

長い時間の記憶は消えて

ホントに若かったよな。恐いものなしだよな、立ってる姿だけでそう見えるじゃないか、こんな時がいつか自分たちにも来るなんて全然考えてないよな、俺だって考えたことなかったもん、死ぬとかさあ、年とるとかさあ、自分は十年後も二十年後も今と同じ姿してんだよ、想像なんてそんなもんだよ。人は未来なんて想像できないんだよ。未来にいるのは自分なんだよ。でも死んだのはキヨシローってことじゃないんだよ。こうやってギンギンにやってる八三年のキヨシローやチャボはキヨシローが癌にならずに生きてたってもういないんだよ、だってそうだろ?   保坂和志カフカ練習帳』

そうなのかな。そうなのか?

4月25日(水)
黄砂が降り、空が土色にぼやけていた。各地で夏日を記録、大阪も暑かった。ストーブはまだ灯油が入ったままリビングの真ん中に放置されているが、わたしはこれをどうするつもりなんだろう。
堀江敏幸の写真集が出る、と聞いたときは、てっきり本人が被写体になるものと思い込み、ご乱心だなあ、徹底的に世の中おかしいな、と途方に暮れていたのだけれど、堀江さんが撮った写真の写真集だった。ほっとした。
『目覚めて腕時計を見ると』というのは、あとがきにもあるように島尾敏雄からの引用で、その本のページをそのまま撮影した写真もある。急に読みたくなり『夢のかげを求めて―東欧紀行』を持って、出勤した。
車窓を流れていく景色、出会って別れた人、交わした会話、異国の空気とにおい、見てきたもの置いてきたものにいちいち心を残し続ける島尾敏雄に共感しつつ読む。
30分だけ残業して退社。商店街の時間が止まったみたいな鄙びた小間物屋で、埃をかぶって陳列されていた、大根おろしをつくるためのおろし器を買う。急にずかずかと店に入ってきた女が、ろくに選びもせずに、おろし器をひっつかみ、これください、と差し出したので、店番のおじさんがびっくりしたみたいな顔をしていた。700円、消費税込。
大根おろしは、夕食に、おろししょうがと葱、レモン汁とともに天つゆにいれ、しし唐、玉ねぎ、紅しょうが、ちくわ、かぼちゃ、あなごの天ぷらをつけて食べた。それとトマトサラダ。トマトはカシッとして甘くて美味しい。
宝塚線の事故から7年。あれから長い時間が経った。そしてその時間は、今につながっている。

4月26日(木)
給料日だがお金がない。右から左へ流れていく。金など観念上のものでしかないのはわかっているが、給料をもらうたびに悲しくなる。
半年分の通勤定期券を買わねばならぬ羽目になったことも、このお金のなさの理由だ。毎日歩いて通勤しているこのわたしが、なぜ、使いもしない、しかも、大嫌いな大阪市営地下鉄の定期券を買わねばならぬのか理解に苦しむ。しかし、大人にはいろいろ事情がある。久しぶりに足を踏み入れた本町駅の定期券売場は、社会主義国の税関所みたいに陰気でどんよりしており、職員の顔はパチンコ屋の景品交換所なみに、衝立で隠されよく見えなかった。
図書館で借りた、星野博美『コンニャク屋漂流記』を読む。確かに、人は未来を想像なんか出来ないのかもしれない。人が生きてた時間は、その時間の中にしかない。
夜、ラジオから流れてくる声に耳を傾ける。実際にあったことだって信じられないなあ、と思うこともあるけど、あの時間は確かにあったし、きっとまだどこかに残っていていつか蘇るはずだ、と思う。
そうだ。3月に小沢健二のコンサートに行った時に強く感じたのだ。遠く過ぎ去ったかに思えた時間はまざまざと蘇り、それが自分を激しく揺さぶるのだ、と。

4月28日(土)
出勤時、『世界の快適セレクション』を聴いていたら、冒頭の曲はゴンチチのギターによる『ひまわり』だった。三上さんが、ソフィアローレンが傷をおったマストロヤンニを抱きしめ頭部に傷があることを知った時、ああこれで本当に全てが変わってしまったのだ、もう元には絶対に戻れないのだ、ということを悟るんですよ、そのシーンはあまりにも哀しいですね、と語り、もうそろそろ会社の門をくぐろうかとしていたわたしは、打ちひしがれて、働くのが嫌になった。でも働いた。
NHKテキスト『ビギナーズ』の「鶏肉自由自在」に載っていたレシピから、鶏胸肉のレモン炒めをつくる。天つゆに使ったレモンが残っていたので。枝豆、スナップエンドウ、三度豆、ブロッコリーを茹で、枝豆は塩をふり、他の野菜はオリーブオイルと塩を振りかけて食べる。冷奴やキムチも。タイガースはGにボロ負け。なんじゃ、やる気ないんやったらやめろー、と雄たけびをあげて『カフカ練習帳』を読む。