なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

酒を注げ、それから歌え

蝉は、午前5時半に鳴き声をあげる。昇る太陽にあわせてどんどんボルテージがあがり、洗濯物を干すためにベランダに出たときには、木全体がスピーカーみたいにうなりをあげていて、蝉に包まれる感じになる。声が耳に、日が肌に痛い。

日録によると、今年、初めて蝉の声を耳にしたのは7月12日で、この日の朝のNHKニュースでは、「現在九州では、今まで経験したことのないような大雨が降っています」と、アナウンサーが緊張した声をだしていた日だった。そんな表現も、初めて聞いた。
南で降りしきる雨。曇り空の大阪では、じいっと静かに蝉が鳴いていた。また、夏がはじまるのだと思った。

7月12日は蝉の声を聞いた他に、十三でカサヴェテスの『ラブ・ストリームス』を観た。さみしいときはさみしいって素直に言ったら?と、カサヴェテスの映画を観ると思う。そばにいてほしいって、行かないでくれって、言ったら?自分だって言えないくせに、映画に出てくる人たちにはそう思う。でも誰も言わない。心から渇望しているくせに、欲しいものには背をむけて、別れる時は黙って手を振る。
先週の木曜日、8月9日にはテオ・アンゲロプロスの『霧の中の風景』をスクリーンで初めて観た。居たたまれないほどの美しさ。きょうだい2人がドイツ行きの列車に乗ってしまうとき、白い馬が路上で死に絶えるとき、フィルムに霧が映るとき、オレステスとバイクで海まで駆け下りるとき、そして国道で別れるとき。
生きることは痛切で残酷だ。しかし、世界をこのように切り取ることのできる人達がこうして存在していたことに、心から感謝したい。

わたしはその人の死だけを恐れていた
もはやわたしに恐れるものはなにも残っていない
家屋敷はわたしの好まぬ人でみち
墓場はわたしの好きな人でみつ

アブー・ヌワース『アラブ飲酒詩撰』(岩波文庫)は、このところのわたしの枕頭の書。

この日記を放置していた約3ヶ月、どうにかこうにか日を過ごしていた。日々、いろんなことを思い、考え、不安になり、開き直り、怒り、うんざりして、やりすごし、当惑し、また考え、感じて、実践し、知らない間にすべてが過ぎ去っていた。ここまで来た道程は、振り返ってももうよく見えない。それを、どうにかこうにか、と名づけることにした。

星は沈み闇の帳は高く上がりぬ
ものなべてしらじらと夜の明くるを知る
生命受くれば生きねばならず
荷を担ぎて朝早く門を出て行く

これまた何度読んでも素晴らしい、黒川洋一編『李賀詩選』(岩波文庫)。これはまだ書店でも買えるはず。700年の終わりから800年代初頭に生きた人の詩が、なんでこんなに新しくみずみずしく、わたしのような者の心にも沁みるんだろう。
夜には主に詩を読んで、昼間は長谷川四郎とブローディガンを再読している。

すごく短いけど夏休みをもらえたので、もう少し、この日記を書けたらいいなあと、思ったり思わなかったり。