なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

心細くなってしまうのだろうか

もう少し晴れるかと思っていた。久しぶりのお休みだったので、朝7時頃から張り切って布団を干してみたものの、いっこうに太陽は出てこなくて、出てきてもすぐに隠れてしまった。どんよりした空から時折冷たい風が吹き、ベランダにかかったシーツをゆらしているのを部屋からみていると、ものすごく心細い気分になってきたので、布団を取り入れたのが午前9時。そのあとも照ったり曇ったりを繰り返し、あっという間に日が暮れた。

つい一週間ほど前に、41歳で初めて子どもを産んだ友人がいて、産んだ子どもの写真とともに送られてきたメールの中に、人生でこんなに自由時間がないのは初めてだ、と書いてあった。赤ちゃんの写真をみて、どんな言葉を返していいかわからなかったけど、人生の自由時間のことについては、何か書けそうな気がした。でも何も書かなかった。自由時間ってなんだろうね。わたしたちは、いつでもなんでも好きなように、できるはずなのに。

前にここに何か書いてからまた3ヶ月ほど経った。一日はほぼ同じようなかたちをしているのに、何で後ろを振り返ったとき、それぞれ違う毎日が連なっているように思えるんだろう。
毎日毎日、仮面をいくつもつけかえて、心にもないことを喋ったり、笑いたくもないのに笑ったりするのは本当にしんどかった。わたしにとって、そのしんどさをわかってくれそうなただ一人の人が平田オリザで、その平田オリザを観察した映画、想田和弘監督の『演劇1』『演劇2』を10月末、約6時間かけて観た。ものすごくよかった。
演劇観て元気になってもらおうなんて全然思ってませんから、と笑う平田オリザの戦略的な愛想笑いは、わたしの心を洗い、力づけてくれた。監督にとってもそうなのだろう。徹底して内面にふみこまない姿勢が、逆にある種の人の内面を癒す。映画の中で挿入される、東京やパリの街中の風景は、猥雑であるほど不思議と美しい。また、ラストの、稽古中に居眠りしそうでしない、落ちそうでギリギリのところで持ちこたえる平田オリザの瞼は、ホセ・ゲリンの撮った墓石に昇ろうとする蟻のシーンとだぶって、妙にスリリングだった。あと、本番前の『青年団』の役者達の、しこみやばらし、昼食時の何でもない雑談や発声練習などのシーンはわくわくして、単純にとても面白かった。ここ数年で観た映画の中でも、群を抜いて素晴らしかった。

先週観た『黄金を抱いて飛べ』は、なんというか、期待したほうがだめなんだろうけど、やっぱりあかんかった。高村薫には悪いけど、わたし、物語のある映画もうだめかもしれん。話、つくりすぎやし。とにかく浅野忠信はごちゃごちゃごちゃごちゃ動きすぎ。若い時は演技しなくてもそれなりにオーラが出てたけど、年を経てそのオーラが失われ、演技しないととてもじゃないけど見られなくなってて、その演技がこれまたきつい。また妻夫木は見られる。泣きすぎだけど。

夏から秋にかけては、小説から遠く離れて、社会学的な本ばかり読んでいた。もともと社会学部出身だから、結局、社会のことが好きで、いろいろ知りたいのかもしれないと思う。特に小熊英二『社会を変えるには』『平成史』、ニール・マクレガー『100のモノが語る世界の歴史』が勉強になってよかった。それから家の光協会から出ている『わたしのとっておきサラダ』もよく読んで、たくさんサラダをつくって食べた。尊敬する料理家である長尾智子さんの『毎日を変える料理』も、折に触れてよく眺めている。

8月に会社が梅田に移転して、まあ確かにビルは綺麗になったけど、セキリュティがものすごく厳しくてどこに行くにもカードが必要ですごく面倒くさいとか、家から歩いて行くには時間がかかりすぎるとか(でも帰りは時々歩いている)、黒門市場に寄り道しにくくなったとか、嫌なことばかりの中で、唯一、社員食堂がなくなったせいでお弁当生活が復活したことが、喜ばしい。せっせと毎朝弁当をつくり、お茶を水筒につめて、遠足気分で出かけている。

きょうは銀行にいくためになんばに出たついでに、タワーレコードキリンジの新譜を買った。キリンジのアルバムを買うのは久しぶりだ。冬になるとキリンジが聞きたくなるし、鼻歌で唄う回数も断然増える。
五月病』という曲を鼻歌で唄うといつでも、ランドセルを背負った自分になる。ドヴォルザークの『家路』をバックに、夕方、運動場をななめに横切って小学校の裏門を出る時の、ひとりの自分。焼却炉の横にあった柿の木の葉が落ちかけていたこと。からっぽの給食室。講堂の横に片一方だけ落ちていた上靴。好きだった男の子が友達とはしゃぐ声。振り返っても見えない姿。職員室の時計。バスケットゴール。鉄棒。夕暮れ。泣きたくなってしまう。

友達いない土曜のサイレンは、やけに長く唸るもんさ