なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

 2666

いつだったか日にちは忘れたけれど、難波か梅田のジュンク堂でロベルト・ボラーニョ『2666』(白水社)を買った。6600円もしたけど、読みたかったので躊躇しなかった。ずっしり重い本が入った袋をかかえて帰ったことは覚えている。購入してしばらくは本棚に飾っていた。
がっつりした小説が読みたかった。読んでいる間、その中に埋没し、その中で生きられるような小説が読みたかった。

2月13日(水)
前日の夜に寝床で、図書館で借りた津村記久子さんの『ウエストウイング』を読み終えた。面白かったなあ。すぐ誰かがつまらない映画にしそう。
まじめに生きることと、斜めに生きることは違うんだ。不器用ながらも進んでみれば違う景色が見えてくるかもしれない。
本日より、いよいよ『2666』を読む。分厚すぎて持っているブックカバーでは間に合わず、表紙を取って持ち運ぶ。冒頭2ページでもう世界に引き込まれる。いつものことながら、胸がワクワクする長編小説の読み始め、ボチボチ舐めるように読もう。
20時まで残業。疲れてふらふら帰る。目が乾いてコンタクトがごろごろする。なにをつくる気も起こらず、阪神百貨店で弁当を買って、家で野菜スープをつくり、ビールを飲む。

2月15日(金)
東京日帰り出張。6時23分の新幹線に乗る。朝とは名ばかりで外は真っ暗。地下鉄も新幹線も、スーツを着ておそらく仕事場に向かうのであろう、たくさんの人が乗っていた。いろんな人がいろんな時間帯に生きている。
仕事で使用する資料の他に、『2666』を持っているので、かばんが恐ろしく重い。
新宿より小田急線に乗る。小田急線なんて、生まれて初めて乗った。ドアの傍に立って、外を眺める。参宮橋で降りて、ポテポテ歩いていると、四角い眼鏡をかけたおばちゃんに、明治神宮はどちらの方角?と道を聞かれる。知らん。知らないので知らないと答える。まあ、とちょっとびっくりされ、だいたいでいいのよ、だいたいの見当を教えてくれない?と言うので、面倒くさくなって、きっとこっちじゃないですか、と自分の行きたいほうに歩いていくと、こっちかしら、そうかも、こっちかもね、と言いながら眼鏡もついてきた。歩道橋をこえると上手い具合に明治神宮らしき緑が見えてきて、まあよかった、やっぱりこっちだった、ありがとうねえ、と感謝される。行き当たりばったりの人生には偶然の幸運がついてまわる、こともある。
研修は夕方に終了した。大して身についたとも思えないが、終わったのでもういい。帰りの新幹線にビールとカツサンドを買って乗り込み、『2666』を新大阪に着くまで、がっつり読んだ。第一部の4人の大学教授が不思議に交わって、不思議にすれ違っていくところが、なかなかスリリングだ。ビールを飲み終えた沼津あたりから20分ほど寝てしまう。

2月18日(月)
雨。代休。月曜日の休み、すばらしい。みんなが働いているのに休めるというところが、さらにすばらしい。雨でも仕方ない。布団でしばし『2666』を読む。きょうは雨水。これから春にむかっていくところだけれど、まだまだ震える寒さ。午後は掃除など行い、日暮れからは家の近所の喫茶店で、珈琲を飲みながら『2666』を読む。
この小説をとおして一番好きだったかもしれない第2部「アマルフィターノの部」を読み終える。読書好きの薬剤師にアマルフィターノがどんな本が好きか、どんな本を読んでいるのか訊ねる。薬剤師は『変身』『バートルビー』『純な心』『クリスマス・キャロル』が好きで、今は『ティファニーで朝食を』を読んでいると答える。アマルフィターノは『純な心』と『クリスマス・キャロル』は短編であって本ではないとし、その教養豊かな薬剤師が大作より小さな作品を好んでいることに、少なからず失望する。『審判』ではなく『変身』を、『白鯨』より『バートルビー』を選んでいることに。

未完の、奔流のごとき大作には、未知なるものへ道を開いてくれる作品には挑もうとしないのだ。彼らは巨匠の完璧な習作を選ぶ。あるいはそれに相当するものを。彼らが見たがっているのは巨匠たちが剣さばきの練習をしているところであって、真の闘いのことは知ろうとしないのだ。巨匠たちがあの、我々皆を震え上がらせるもの、戦慄させ傷つけ、血と致命傷と悪臭をもたらすものと闘っていることを。

『2666』が素晴らしいのは、こういう細部だったりする。

2月23日(土)
右腕が痛い。連日、お弁当とお茶入りの水筒と『2666』を鞄に入れて通勤しているためと思われる。特に満員電車で読むのが辛い。ほぼ辞書を振り回しているのと同じことなのだ。わたしの周りに無言で立って地下鉄に揺られている善男善女たちには、さぞ憎憎しい気持ちで見られているだろうが、通勤時は貴重な読書時間なので、我慢してもらうしかない。わたしも腱鞘炎と闘いながら本を読んでいるんだよ。戦士のようなものなんですよ、いわば。

アマゾンより『はなればなれに』のDVDが届き、早速プロジェクターで壁に投写して、楽しむ。何度観ても楽しい映画というものがあり、『はなればなれに』はその代表格だと思う。

2月25日(月)
だんだん『2666』の残りページが少なくなってきている。「犯罪の部」を終え、とうとう最終章「アルチンボルディの部」へ。「犯罪の部」では、おびただしい人が殺されて無残に捨てられた。ただ淡々と殺人が行なわれていく。
空気が冷えて、びんびんに寒い。北のほうではおびただしい雪が降っているらしい。アカデミー賞が発表され、会社では昼休みをつぶして、組合の職場集会があった。いつになればゆっくり本が読めるのか。明日こそ定時で帰ろう、と誓いながら、ままならず一日が過ぎる。
いつも分厚い本持っているよね、と帰りのエレベータで同僚に言われる。面白い?と聞かれたので、今は、女の子が次々とレイプされて殺されて捨てられてるところを読んでる、と答えると、黙ってた。コメントできないなら聞かなければいいのだ。
夜、珈琲をいれて、再発された、かせきさいだぁのCDを聴く。

2月27日(水)
2月中に読了できるか自信がなかった『2666』であったが、本日、昼休みのドトールで、ようやく読了した。読み終えて、またすぐ読み返したい気持ちになる。長い小説を読み終えた後はいつもそうだけど、この小説を読んでいた、たくさんの場所のことを思い出す。新幹線や寝床の中や、昼休みの休憩室にさしていた日差しのことや、喫茶店の珈琲の味とか、地下鉄や京阪電車の眺めのことを。
『2666』を読んだ後、例えば『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』や『東京プリズン』を読んだが、どうも乗り切れず、終わった。どれも薄味すぎて、食いたりなかった。『2666』の肉厚さとエネルギー、濃密で緻密な世界から、なかなか出てこられなかった。また重厚で、楽しく、刺激的な小説に出会いたい。

Twitterというものに登録してみました。@FukudaKaxw
こういうツールなら気軽に使えて、しょっ中、文章を書けるのかなあ、と思ってもみたけど、そうでもないな。
でもまあなんだかんだ言って、文章を書くのが基本的に好きなんだなあ、とあらためて自分のことを認識した。