なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

他人の夢を眠る

アメリカ合衆国が国をやめることになり、ラジオからオバマ大統領の演説が流れた。国をやめる、というのがどういうことなのかよく意味がわからないが、オバマは、非常に残念だがこうなった以上は仕方がない、というようなことを沈痛な声で語っていたので、きっと残念なことなんだろう。外は隅から隅まで晴れており、窓の外にはうちのマンションからは見えるはずのない生駒山がくっきり眺められた。じっと見ていると、オバマの演説が終わった途端に山頂から、シルバーのシャープペンシルみたいなミサイルが5発、東の方角に向けて放たれた後、一転にわかにかき曇り、紫色のでっかい雹が天からいっせいに降ってきた。

というのが今年の初夢。実に暗示的かつ祝祭的で、なんかよくわからんけどたぶん、映画の予告編の見すぎだと思う。

1日。
午前8時目覚め、寝床で1時間ばかりフランソワーズ・エリチエ『人生の塩』(明石書店)を読む。「生きているというそれだけのことの中にある何か軽やかなもの、優美なもの」、人生における「いくつかの感動や、小さな楽しみ、大きな喜び、時には深い幻滅や苦悩」、「個人的な、長く心に残っている思い出」をがんがん書き出すリストの集積。まるで詩を読んでいるような気持ちになる。

アイスクリームやチョコレートを思いっきり食べる。好意をもたれていることがわかっていて、その人に見つめられ、耳を傾けてもらうひととき、朝寝坊をする、釣り船に乗る、職人の仕事を見ている、香具師の口上に足をとめる、大道芸を楽しむ、何十年も会っていなかった友達に会う、他の人の言うことに本気で耳を貸す・・・

このように延々続く。

ハンフリー・ボガードみたいに形而上学的にピストルをもったりしてみたいと思う。『明日に向かって撃て』『キッスで殺せ』『縮みゆく人間』『海賊大将』『ダブリン市民』をもう一度観る。『ロバと王女』で主演のカトリーヌ・ドヌーヴの着ているドレスに見とれる、ティルダ・スウィントンの芸術的なプラチナブロンドの髪に憧れる、私には何も理解できなかった発表を聞いた後、クロード・レヴィ=ストロースからいきなり何か言うことはあるかと問われた日、その場で死にたいと思った。

好きな映画やそのシーンをあげつらったかと思うと、急に昔の思い出が蘇り、赤面したりする。
自分の「人生の塩」リストを、真似して作ってみたくなる。酒がらみばかりになりそうな予感がするけど…。

昨日、食べそびれた蕎麦を茹で、にしんをのせて食べる。年越しちゃった蕎麦。煮しめと黒豆と数の子とかまぼこで白ワインののち、ぬる燗。外は晴れたり曇ったりしている。洗濯もちゃんとして、掃除機もかけた。これも人生の塩、である。

2日。
映画を観に行く。今年もスクリーンでたくさん映画を観たいなあ。そのためにはなんとしても残業を減らさなければならない。もともとわたしは残業を憎む人間なのだ。2014年の目標は「明日できることは明日やる」。絶対にがんばったりしない。

コートを羽織って、小銭と携帯電話だけもって、バッグも持たずに難波に出かけ、『鑑定士と顔のない依頼人』を見た。近所にふらりと映画観に。これだから都会暮らしはやめられん。

苦い結末、などとどこかにレビューが書いてあったけど、ハッピーエンドだったので驚いた。ジェフリー・ラッシュ演じる鑑定士は確かに全てをなくしたが、ずっとはめていた手袋を取ることができた。髪の毛を振り乱して、自分自身以外のもののために、奈落の底に落ちることができた。手袋を取れないまま、髪の毛も振り乱さないまま、一生を終える人もたくさんいる。それがどれほど甘美なことか、気もつかないまま。
ひとつの世界をなくし、もうひとつの世界に生きる。偽でも真でも、どちらでもいい。自分が真だと信じればいい。信じると決めればいいのだ。何度も何度も反芻して愉しめ。思い出だけでも、たぶん、ごはんは食べられる。
ドナルド・サザーランドを久々にスクリーンで観た。久しぶり〜、どうしてたん?って、声をかけたくなった。渋くて、良い役だった。

街にはたくさんの人がいた。でも御堂筋を超えて、堺筋松屋町筋、と東へ東へと進むと、どんどん人がいなくなって、ゴーストタウンみたいになるところが、お正月の良いところ。とっぷり暮れた道を、コートのポケットに手をつっこんでテクテク歩く。坂道を上がって、降りて、それでも猫にしか出会わない。
帰って、野菜の天ぷらを揚げて、揚げたて天ぷらで今年初のビールを飲んだ。ビールは冷たくて、身体によく沁みた。