なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

語られなかった物語を

雨が降っている。絶え間なく天から水が強弱つけて落ちてくるなんて、よくよく考えたらものすごく不思議な現象だ。誰もなんとも思わないんだろうか。何も言わずに傘さして歩いて。天気はすごい。水は木をぬらし、土を湿らせ、道にたまって、どこかへ流れていく。
早朝は空に靄がかかっていて、カーテンを開けて窓から見える景色はほとんどミルク色だった。数メートル先もよく判別できなかった。ゴミをまとめて出し、珈琲をいれて、朝刊を読む。本日はベートーヴェンの命日らしい。いつも誰かの命日であり、誕生日であり、記念日であり、特別な日なのだ。

3月の日記を。

8日(土)
晴れて、キーンと寒い。今日から十三で『ウォールデン』がかかるのだが、仕事のため行けず。今週は残業、春闘、送別会と、考えるだけで憂鬱が束になって押し寄せてくるような予定で埋められていて、メカスにはお目にかかれそうにない。無念である。責任感と義務感と常識を、まるめて捨てたい。
18時すぎ、仕事を終えて、中之島をふらふら散歩気分で歩き、中央公会堂でやっている古本展に行ってみる。映画がだめなら古本を。何となく棚を眺めていたら、ポール・セロー『中国鉄道大旅行』(文藝春秋)があった。『緑の光線』のパンフレットも買えたし、寄ってよかった。20時まで開いているというのもうれしい。
会社帰りに欲しかった古本買って、晩ごはんの献立を考えながら歩く夕刻が、当たり前に存在する毎日を、やっぱり大事にしなければなあと、心から思う。

14日(金)
冬に逆戻りの凍える一日、18時半から会社のボウリング大会があった。ボウリングもどこが面白いのかわからないスポーツ(スポーツなのか?)のひとつだが、何となく、参加しないといけないのかなあ、という同調圧力にも通じる感情に後押しされて、仕方なく行った。

一応、ボウリングに対する気分を高めるために、堀江敏幸の『スタンス・ドット』を読み返した。これはボウリングというよりも、「音」についてかかれた小説だなあ、巧いなあ、とあらためて思った。次に、DVDで、素晴らしいボウリング映画であるところの『ビッグ・リボウスキ』を観てみた。ボウリングシーンのジョン・グッドマンジョン・タトゥーロには魅せられるものの、あのような濃いパフォーマンスができるはずもなく、フィリップ・シーモア・ホフマンが出てくるシーンを観ては、もういないなんて信じられない、なんでいないんだ、なんでこんなことになったんだろうと、やっぱりそのことばかりを考えてしまい、なかなか冷静になれない。いつかどこかで、この気持ちは立ち直るのか。どうやってやり過ごせばいいのか。

ボウリングは、例えばT次長のように、シャツを巻くりあげ、足を上げて妙に張りきったフォームで、強く早くまっすぐ投げたからといって、ピンが全部倒れることはなくて、ころんと1本か2本、さみしく残ってしまうのに、TちゃんやOちゃんが、いかにも重そうにボールを抱えて、トコトコと小股でレーンを歩き、エイッて感じでぼとんと、ごろんと投げたひょろひょろのボールが、ゆっくりゆっくり走って、ピンが10本ともドミノ倒しみたいにパラパラパラーと、優雅に全部倒れてしまって、キャーンなんて、文字通り「黄色い声」を上げて喜び、次長よりずっとよいスコアをたたき出しているのを見ていると、人生のままならなさ、というようなことに思いをはせてしまうスポーツ(スポーツなのか?)だ。

ストライクを出した時のピンの倒れる音に耳をすませてしまうのは、確かに『スタンス・ドット』の影響で、やっぱり読み返してよかった。2ゲームやって、180点くらいだった。とにかく終わってよかった、居酒屋で、夥しい量のお酒を呑んで帰る。