なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

ゴールはあるが、道はない

今朝も5時に起きて、洗濯機を回し、その側に椅子と淹れたての珈琲を持ってきて(何故なら洗濯機横は風が南から西から入り、家中で一番涼しいから)、尾崎真理子『ひみつの王国 評伝石井桃子』(新潮社)を読み終えた。
数週間、朝の1時間くらいを使って読んでいて、朝に読むのにふさわしい本だったなあと思い返すとともに、幼い頃に読んだ数々の本、特に実家に置いたままにしてある「岩波の子どもの本」を強烈に読み返したくなり、それは図書館で借りたりするんじゃなくて、自分が読んでいた本そのものをどうしても手にしたく、実家へ帰ってきた。

母に、このクソ暑い中わざわざ帰ってこんでも言えば送ってやったのに、と言われたり、他にすることないのか、と言われたり、あほちゃう、と言われたり、なんかいろいろ言われたけれど、押し入れの中に「岩波の子どもの本」はちゃんとあって、字にならない「め」とか「かずみ」とか、なんかよくわからない丸三角な図形とか、色鉛筆の書き込み満載でぼろぼろの『アルプスのきょうだい』や「ふわふわくんとアルフレッド』や『ちいさいおうち』を開いていると、母も、懐かしい、いい本やねえ、若かったなああの頃、などと寄ってきて、二人で絵本を声にだして読み合うというような、普段は殺伐とした雰囲気がたちこめることも多いわたしたち親子だけれど、石井桃子さんのおかげで、「ほのぼの」としかいいようのないような、午後のひとときを過ごすことができた。

絵本5冊ほどと、『ムギと王さま』『たのしい川べ』なども携えその上、一日遅れのうなぎと、もらいものらしいメロンと、筑前煮やひじきの煮物などの常備菜を母がくれたので、バッグは途方もなく重くなり、指が赤く痛くなった。

『ひみつの王国』で好きなのは、『ノンちゃん雲にのる』が文部大臣賞を受賞し、その賞金で、神西清を案内役に、4人で浅草にストリップを観に行くくだり。どうでしたか?とストリップの感想を聞かれた石井桃子さんが「女風呂に入ってるような感じでございましたわね」と答えて、神西清が「そりゃそうだよね」と笑った、ってところ。

帰宅してから、大阪市内各地の商店街巡りを趣味としているF君が、文の里商店街で大量に買ってきてくれたヤングコーンをゆでて、醤油マヨネーズで食べた。美味しかった。ヤングコーンはわっさわっさと長く厚い皮に包まれているけど、皮をむくと手のひらサイズで、ほとんどがゴミになる。皮の使い道は何かないのか、と考えてみたけど、思いつかない。
F君にはお返しに、実家でもらってきたメロンをあげた。こうして物々交換していると、柴崎さんの『春の庭』を思い出す。あの小説でも、何度も、モノをあげたりもらったり、もらったものをまたそのまま誰かに渡したり、そんなことが繰り返される。もらいものはもちろんうれしいものだけではなくて、要らないものもある。でもそれは他のもうひとりをものすごく喜ばせたりする。誰かにとって不要なものは、誰かにとってのかえがえないもの。そんなことが書かれている物語で、賞をとってもとらなくても、そんなことはどうでもよいほど、すばらしいものだ。

ずっと楽しみにしていた『収容病棟』を、十三で観た。前編後編4時間。上映時間の長さが気にならないのは、撮影されている精神病院の中では、時間というものが意味を持たないせいなのか、はじまりも終わりもないせいなのか、とにかく、我を忘れてみている間に、4時間はすぐ過ぎる。
好きなシーンがいっぱいありすぎて困るほど。それに、まるで自分をみているみたいな瞬間もたくさんある。寝られない夜、寝られないことが辛くって、ベッドの上で起き上がったり寝てみたり、また起き上がってシーツを直したり、そしてまた寝てみたり。人恋しいくせに、素直になれなかったり。欲しいのに、要らないと言ってみたり。意味なくグルグル歩き回る、歩きながら考える、空を見上げて朝日を浴びる、人の食べているお菓子がおいしそうに思えて仕方ない、でも食べたらまずかったり。話すことはないのに誰かと話したい。病院から出て行きたい、でも、出て行ってもどこへも行くところがない。
後ろの席に座っていた女性2人組は、前編が終わった時に、もうあと2時間はしんどいわ、と言って後編を見ないで帰って行ったが、後編こそみなければならなかったとわたしは思う。それは後編のほうがよかったという意味ではなく(前編もめちゃくちゃ素晴らしい)、後編はカメラが病院の外に出るのだ、それは絶対に観た方がいい。病院の中も外も同じってことが、月夜の下、黙々と歩く男の背中を延々と撮っているシーンでわかるから。背中の映画でもある。
前編で帰ってしまった女の人にそれを伝えたいけれど、もう二度と会えないだろう。