なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

まるで見えないふりをして

9月23日、秋分の日。
玄関を開けると西側に見える寺の墓場がいつになく華やかだとおもってよく見ると、ほとんどの墓が赤や黄色、白に紫の花に彩られている。花の名前はわからない。いつもに増して、お参りの人が多い。線香のにおいと読経の声、烏もうろうろしている彼岸の空は、すこんと抜けたブルーだ。

黒川創の『国境』(河出書房新社)を携えて、梅田から、姫路行きの阪神電車に乗る。三宮を越えて、海と山にはさまれつつ、すすんでいく景色がとても好き。梅田から姫路まで、約1時間40分はかかるけど、残りの1時間くらいは、ほとんど本から顔をあげて、窓から外を見ていた。

電車がトンネルを抜けて外に出ると、車内に光が溢れる。暗闇と光が交互にあらわれるたび、昨夜、映画館で観たばかりの侯孝賢『恋恋風塵』のことを思い出す。『恋恋風塵』は、ほんとうにほんとうにほんとうに、素晴らしい映画だった。最高の109分間だった。もともと『郊遊』か『物語る私たち』を観るつもりで行ったシネ・リーブルだったけど、『恋恋風塵』があと30分後に始まるって知って、すぐに予定を変更した。行き当たりばったりの人生には、こんな幸運も隠れている。
スクリーンを越えて、風が吹いてくるような、波が打ち寄せてくるような、緑がにおってくるような画面だった。わずかな灯りのもと、大切な人に宛てて書く手紙。その手紙は、やがては届かなくなってしまうんだけれど、ラストのおじいちゃんとの畑のシーンがあまりに神々しくて、返事はかえってこなくても、おもいはきっとのこり続けるのだと、不意に胸に落ちた。伝わらないわけないって。

そんなことを思いながら歩く姫路の街。姫路城は相変わらずまぶしい白だったが、改修中らしく、クレーンに囲まれていた。
姫路市立美術館で、米田知子の写真展を観る。『暗なきところで逢えれば』。ずっと楽しみにしていた。黒川創とのトークショーの日に来れなかったのは残念だったけど。

子どもの頃、心霊写真のテレビ番組が好きだった。後ろに誰もいないのに肩に手がのってたり、膝から下の足がなかったり、木の中に人の顔が見えたり。家で独りでテレビを観ていても全然怖くなかった。そう見えるだけやん、そういう風に見たくて見てるだけやんとおもっていた。
この場所はこれこれしかじかの事件がありその怨念が…、などと、心霊研究家とかいう人がよく言っていた。怨念とかいうことで言えば、米田知子が撮っている場所はそんなんばっかりだ。暗い記憶がまとわりついている。米田知子のどの写真にも、空に浮いた手や顔は、写っていない。しかし、昔、テレビで見てた「心霊写真」なんかより、ずっとずっと怖い。怖いというか、戦慄する感じがする。そこには映るべきものしか映ってない、しかし、心がのこっている。慕わしいおもいも邪悪なおもいも、すべてひっくるめて、そこにのこっている。それは残された者が知っている。
今は野球場になっている、知覧の特攻出撃の基地跡の写真、『闇のあとの光』で男が自分の首を切り落とす広場と、何だかとてもよく似ていた。

阪神電車は魅惑的だけど、大阪まであまりに時間がかかりすぎるので、JRで帰ることにした。『国境』は、100ページくらい読めた。梅田ホワイティの「ルージュ・エ・ブラン・コウハク」というワインバーで、白ワイン飲んで帰る。仔牛のステーキ、大根のボルチーニ茸ソース、ハマチの香草パン粉焼き、シーザーサラダ、フレンチフライポテトなど。店内の音楽は少々うるさいけど、美味しくて安い。18時までに入店すればワインボトル20%引きというのが、うれしいけど飲み過ぎるので困る。

帰宅して常備菜つくり。マカロニサラダにきんぴらごぼうに、こんにゃくのピリ辛煮。涼しくて窓を開けていられない。線香のにおいはもう消えていた。