なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

死とプルトニウムの歌

大岡さんの方まで主人と散歩に行く。大岡さんの家は雨戸が閉まっている。何だか懐かしくて家のまわりを一まわりする。人が住んでいない家には、庭にも雨戸やテラスにも、そこの家の人の息や仕草が漂っているようで、却って人臭く生まなましい感じがするのは何故かしら。テラスに脱ぎ放してある雨ざらしのゴム草履や、きれいに洗ってつまっている空きびんの箱。外の水道の蛇口につけ忘れたままの水色のゴムホース。髪にひっかからないように、垂れてきた枝をビニール紐で束ねてある裏庭の松の木。白樺の枝で作った、坐ったらすぐこわれそうな腰掛け。犬の糞。これはデデのだ。
ほかの家の庭先にも入ってみる。軒に吊るされ放しの風鈴。テラスにおちている櫛と鏡。ストローの入ったままのコカコーラの空きびん。床下に風で飛んでいる麦わら帽子。
私のうちも戸がしまっているとき、誰か入ってくると、こんな風に思うのかな。

誰かの不在ほどその人の存在を強く感じさせるものはない。今はもういない、もう会うことはできない、でも確かにその人がここにいたその痕跡を、いつも求めて生きている。
去年、初めて『富士日記』を通読した。引用したのは、一番心が動かされた文章。武田百合子はその大きな目で、見えるものをあるがままにしっかり見ようとしていた。

今年もお正月が来て、また去っていこうとしている。
時間をかけて用意したおせち料理も、元日だけでほとんど食べ終えてしまった。たんまり買い置きしていたお酒も、何故かどんどんなくなってしまって、何故ってまあそれはのんでしまったからなのだが、思うに、わたしがここに日記(のようなもの)をあまり書かなくなってしまったのは、本や映画や音楽に耽る合間に、つまらぬ月給仕事に振り回されて面倒なことになっているということももちろんあるけれども、夜や休日に酒を飲み過ぎて、正常な精神状態でいる時間がかなり少なくなってきていることが、原因として考えられるのではないだろうか。しかし、酒量を減らすくらいなら死んだ方がましなので、今年はまともでない状態でも書けるときは書こうと、今は思っている。

出かけようと外に出たら、裏や隣の寺に墓参りに行く人とよくすれ違う。お正月にお墓参りするのもいいものだなあと、去年亡くなった伯父さんのお墓に行ってみようかと少し思ったけれど、当初の予定通り、映画館の暗闇にまぎれてしまった。
伯父さんがもう長くないとわかった数ヶ月、そして亡くなった後もずっと、物心ついてから伯父さんと交わした会話や一緒に行った場所でみた景色、伯父さんの笑い顔や口癖や、背中の感じや歩き方とか車の運転の仕方とか、祈るような気持ちでいろいろ思い出している。思っているだけで、わたしは伯父さんに何も伝えることはできなかった。でも口に出さなかったから伝わってないって何で言えるんだろう。今はまだ自分の延長線上にあるこの思いを、墓参りという形式にのせることはできない。だから、墓へ行くのはやめようと思った。

心斎橋でウェイン・ワン《Smoke》を観た。95年に京都河原町にあった京都朝日会館で観て以来。こんな良い映画だったのかあ。若い時にはこの映画の本当の良さはわからないわ。年をとるのも無駄じゃない。煙草屋の前の同じ場所で、毎日同じ時間に撮られた写真を1枚1枚アルバムをめくって見るシーンと、最後のトム・ウェイツの歌声はほぼ反則に近く、帰って本棚からオースター『トゥルー・ストリーズ』引っ張りだして、大好きな『ゴサム・ハンドブック』を読んだ。

状況として必要ないときでも笑顔を浮かべること。怒りを感じているとき、みじめな気持ちのとき、世界にすっかり押しつぶされた気分のときに笑顔を浮かべることーそれで違いが生じるかどうか見てみること。
話すことが尽きてきたら、天気を話題にすること。(中略)天候ほど人々を平等にするものはない。天気は誰にも、どうすることもできない。天気は我々みなに同じように作用する。富める者も貧しい者も、黒人も白人も、健康な人も病める人も、天候はいっさい区別しない。私に雨が降るときはあなたにも雨が降るのだ。
毎日同じ時間に自分の地点に行くこと。一時間のあいだ、その地点に起きることをすべて観察し、その前を通り過ぎたりそこで立ち止まったり何かしたりする人すべての動きを追うこと。メモを取り、写真を撮ること。こうした日々の観察を記録にまとめ、人間について、もしくはその場所について、あるいはあなた自身について何か学べるか見てみること。
そこに来る人たちに微笑みかけること。可能な限り、声もかけること。言うことが何も思いつかなかったら、まずは天気の話を。

そうだ。天気の話をしよう。

去年は映画館で55本の映画を観た。これでも何とかがんばったほうだ。選りすぐって、これはほぼ間違いないという作品だけを観ているので、ベスト10とかそんなのはなく、それぞれがそれぞれに良い映画ばかりだった。あ、一つだけダメなのがあった。《FOUJITA》。小栗康平の考えてることはようわからん。一番びっくりして、画面に釘付けになったのは、シャンタル・アケルマンブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン》。機会があればぜひもう一度観たい。2016年に観た最後の映画は《親密さ》だった。3年ぶりに観たけど、やはりすばらしい。《ハッピーアワー》もよいが、わたしは断然《親密さ》が好きだ。この映画を観てから、電車ではほとんど坐らず、ドアの側に立って、空を見上げるようになった。人の行動を変える映画だと思う。

今年もいろんなもの見聞きして、感想のひとつやふたつ、書いていけたらいいなあと、思ったりしています。