なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

そして、怠惰の衣服を身にまとい

 一週間ぶりに実家へ帰る。京阪電車は人身事故でダイヤが乱れていた。電車の窓から見える黒い雲の間から、ぎらっと光る稲妻。わたしまでは音が届かない雷が、たぶんどこかで鳴っている。
 
 雨が降ってもいないのに、ふとした瞬間に雨の匂いが漂うような気がするような6月も、今日でおわり。雨が降っていると天気が悪いなんて、誰が決めたんだろう。わたしは、雨がけっこう好きだ。あの日も、あの日も、時折思い出す大切な日のいくつかは雨だった。6月が特別な一ヶ月だった年もあった。ずいぶん前のことのようにも、ついこないだのようにも思える。時間が伸縮している。

 2018年6月のこと。6月1日。
 父の化学療法の日。ブラッド・メルドーの新譜を聴きながら、京阪電車で待ち合せの駅へ行く。父は散髪したての頭で現れた。さっぱりしたやろ、と襟足を撫でる。この薬は脱毛の副作用はないのです、とドクターから説明された時の嬉しそうな父の顔を思い出す。痩せはしたけれど、見た目は何ともない、健康な人のようだ。健康とは何か、そのこともよくわからなくなってくる。
 点滴に3時間、化学療法の待ち合い室で、津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』を読みすすみ、上巻を読み終える。大学のときに一度だけ行った、阿寒湖近くにあったアイヌコタンのことを思い起こす。もっとしっかり見ておくんだった、あの頃はなーんも考えてなかった。津島佑子が紡ぐ物語は雄大で、読んでいて場所と時間を忘れるほど、夢中になれる。
 点滴後の父と、看護師の話を聴く。毎日2回体温と体重をはかること、排便回数を数えること、外出時はマスクをすること、一日に数回はうがいをすること…。あーたいそうなこっちゃ、と父は言う。もう死んだ方がましやなあ、と。そうだね、わたしも死んだ方がましやと毎日思ってるよ。でも死ぬまでは生きねばならず、そこに人生の面白さと悲惨さがあるのだろう。わたしたちは、この世からいなくなるその直前まで、元気でいることを強いられる。

 6月8日。
 東京日帰り出張。8時3分の新大阪発に乗って行き、18時30分の品川発の新幹線で帰る。台風5号が接近中で、滋賀県あたりで大雨が降り出した。新幹線はひるむことなく走り続けて定刻どおり。京都あたりでは雨が上がっていた。
 帰りの新幹線ではビール500ml缶2本飲みつつ、「文学界」7月号をめくる。村上春樹の『三つの短い話』、最後の〈チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ〉が非常に好きで、3回立て続けに読んでしまった。村上春樹にはこの手の書きぶりを、今後も続けていってもらいたい。

「死はもちろんいつだって唐突なものだ」とバードは言った。「しかし同時にひどく緩慢なものでもある。君の頭の中に浮かぶ美しいフレーズと同じだ。それは瞬く間の出来事でありながら、同時にどこまでも長く引き延ばすことができる。東海岸から西海岸くらいまで長くーあるいは永遠に至るほど長くね。そこでは時間という観念は失われてしまう。そういう意味では、わたしは日々生きながら死んでいたのかもしれないな。

 帰ったらチャーリー・パーカーのレコードを聴こうと楽しみにしていたのだが、NHKラジオの聴きのがしサービスで、「すっぴん」の是枝監督のインタビューと、町田康宇治拾遺物語の朗読をじっくり聴いてしまう。高橋源一郎は、巨人ファンでさえなかったら、もっと評価したい人なのだが。巨人ファンだからなあ。
 NHKラジオのこのサービスと、radikoのタイムフリーとエリアフリーのおかげで、我が家のラジオ生活は劇的に改善された。すばらしい。聴くものがありすぎて困る。

 6月10日。
 神戸でビアンカ・ジスモンチトリオのライブ。たいへん堪能。ビアンカの背後の席にすわり、演奏の一部始終を、聴くだけではなく、しっかりと見る。ピアノの鍵盤の上を、なめらかにすべるように魔法のように動き続ける手。いいメロディには言葉は要らんな。CD買ってサインしてもらう。マタキテクダサイ、アリガト。
 帰宅して、タイムフリーでバラカンビート聴きつつ、ワインとちくわの穴にチーズとキュウリを入れたものに、ブラックペッパーマヨネーズをつけて食べ、山田稔さんの『こないだ』を読む。
 明日からまた仕事とは、到底信じられず。

 6月18日。
 朝、地震。地下鉄が止まり、どうするか迷った末、1時間10分ほどかけて、歩いて会社まで行くという社畜的行為に及んでしまい、自分自身を激しく軽蔑する。会社に着いたはいいがエレベーターは当然とまっており、勤務フロアである18階まで階段で上がるハメとなり、自分を叱咤激励しつつ階段登山を行い、ほうほうの体で自分のデスクにたどり着いた途端、地下鉄は動き出し、業務用のエレベーターも作動して、なんかわたしももういい年なんだし、もう少し「じっくり機を待つ」ってことを、学ぶべきなんじゃないだろうか。
 働いて定時に帰り、天王寺の居酒屋で地酒三合のむ。

 6月26日。
 送ってくださった『ぽかん』7号が、さまざまな請求書やダイレクトメールなどとともに届いていた。掃き溜めに鶴。
 書いておくことの尊さは、その時はそんなにわからなくても、あとになって、しみじみ感じる。生も死もそんなにかわらないこと、はじまりは終わりをふくみ、終わりははじまりをふくんでいること、忘れてもまた思い出すこと。そうやって反芻される記憶に何度も助けられてきた。おそらくはこれからも。そんな気持ちがつまった本だと思います。