なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

続・おしょうがつにっき

午前7時に目が覚める。カーテンの向こうは薄く晴れた空。しかし、洗濯機をまわし始めた途端、細かい雨が降ってきた。雨は目に見えなかったけれど、ベランダから見える自動販売機で飲み物を買っている人が傘をさしていたので、それとわかった。雨は瞬く間に、ベランダ前の民家の屋根をぬらし、地面を黒くして、水たまりまでつくった。

朝ごはんは、チーズトースト、マンゴーヨーグルト(ブルガリアヨーグルトにマンゴーフィグをつっこんだもの)、熱い珈琲。Tを見送って、洗濯機が止まる頃、雨も上がった。

ブッカー・T・ジョーンズの『ザ・ロード・フロム・メンフィス』を聴きながら、バケツに水をため、床の拭き掃除をする。寺の小坊主になった気分で、床に置いた雑巾を四足でたったったっと走りながらおしていく。本当に綺麗になっているのかよくわからないけど、小坊主ごっこをするのが目的だったので結果はどうでもいい。
雑巾を洗うバケツの水は確実に汚れていったので、きっと汚れはとれたんだろう。拭き終わった本棚に、出しっぱなしの本を納めていきつつ、また松たか子による朗読を聴く。昨日の続き。

それでよかったんですよ、片桐さん。何も覚えていないほうがいい。いずれにせよ、すべての激しい闘いは想像力の中でおこなわれました。それこそがぼくらの戦場です。ぼくらはそこで勝ち、そこで破れます。もちろん誰もが限りのある存在ですし、結局は破れ去ります。でもアーネスト・ヘミングウェイが看破したように、ぼくらの人生は勝ち方によってではなく、その破れ去り方によって最終的な価値を定められるのです。

わたしたちは闘い、勝ち、やがて破れ、そして、混濁の中へ。

昨夜つくった大根と金時人参粕汁の中にお餅を入れて昼ごはんにして、午後から地下鉄に乗って十三に出かけた。電車の中では、12月に三月書房で買った山田稔『日本の小説を読む』。漱石の小説を嫌いな人が出てきて、いくじなしのインテリが普段は高飛車なくせに好きな女の前ではぐじぐじしているのがだめ、好きな女ができたら人妻だろうがなんだろうがひっかついで山の奥まで逃げればよい、と報告していて、確かに漱石の小説の主人公は全員、お前しっかりしろよと背中を足蹴りにしたいような奴ばかりだが、そんな嫌な奴の出てくる話をぐんぐん読ませてしまうのだから、やっぱり漱石はすごいのかも、と思ったりしてるうちにすぐ十三に着く。

第七藝術劇場で『ゴモラ』を観る。イタリアのナポリを拠点とする犯罪集団に否応なく巻き込まれていかざるを得ない人々とその街を描く。醜く年をとり肥え太り、マフィアとしての美学よりも金のことしか考えない奴らへの怒りは空しい。しかし、腕のいい仕立て屋と産業廃棄物処理に携わる若者のエピソードには心を打たれた。わたしはこの作品を、マフィアの映画ではなく、生きることと働くことへの誇りを失わず、愚直ながらも懸命に自分の人生を選びとろうとする人々の物語と捉えた。そう思うと、少し勇気が出た。

梅田から天満橋までふらふら歩き、帰宅してから、湯豆腐、数の子煮しめ、ごまめをテーブルにならべ、立山をぬる燗で三合ほど。これを適量の酒というのではないでしょうか。何事もほどほどに。
これからお風呂に入って、ワインでものむとしよう。