なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

口の中の穴蔵へ

昼休みに歯が抜けた。
お盆前からグラグラしていた、左上の奥歯から2本目。食後の歯磨きの最中、ブラシに揺り動かされて、ついに口中へ落下した。洗面台に吐いた歯磨き粉は真っ赤に染まっていて、よく朝食に食べるイチゴジャムいりのヨーグルトみたいだった。どうしたんいきなり血吐いて、と横で顔中にあぶら取り紙をぺたぺた貼り付けていたHさんに言われる。ちょっと歯が抜けまして、と言いながら口をゆすぐ。吐き出す水は赤から茶に変わっていった。
歯医者行かなくちゃな、と思いつつ、空洞になった部分を舌で撫でてみる。ついさっきまで歯茎にぶら下がっていたのに、今はもう手のひらに落ちた歯は、歯じゃないみたいだった。歯は口の中にいてこそ初めて歯なんだ。口中で、わたしに舌で散々いじられていた部分を愛おしく思う。舌の感触でしか知らなかったが、こんな形をしていたのか。白くて、少しいびつで、端が尖っている。捨てることはできなくて、そのままポーチにしまった。
仕事終了後、髪を切りに行く。予約の時間まで間があったので、上島珈琲で、黒糖ミルク珈琲を飲みつつ、『パレオマニア』を最後の鶴見俊輔の解説まで読んだ。ソファーに身を沈めると寝てしまいそう。煙草をやめて一番よかったことは、喫煙席を探さなくてもよいことと、禁煙席のほうがいい椅子を置いている店が多いこと。
髪を切りつつ、美容師のお姉さんの恋愛話を聞く。転居とともに、美容室も変えた。今度の店は、隠れ家みたいな小さなサロン。窓から焼き鳥屋の香ばしい匂いが漂う。好きな男の話をしつつ、興奮して鋏を振り回すのはどうかと思ったが、ま、人を好きになることは素晴らしいことだ。それは心から思う。人を真剣に愛することは、その人を必ず成長させる。わたしはそのことを証明できる、と思う。
帰宅して、簡単なごはん。茄子とピーマンの味噌いため、温奴(葱、生姜、海苔、かつおのせ)、ごはん、ビール。
なんだか、急に涼しくなった。