なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

『キェシロフスキの世界』

仕事場の朝礼で隣の部署の人が、日本人が3人もノーベル賞を受賞して嬉しいですね、日本中が喜びに包まれましたね、などと話しているのを聞いて、ふうんそんなことがあったのか、と知る。
この会社は理系の人が多いからそう感じるのかもしれないが、わたしは、日本人に限らず誰がノーベル賞をとったとしても、長年ひとつのことをやり続けていくというのはたいへんなことだ、とは思うけれど、別に喜びに包まれたりはしない。嬉しくもないし。だから、日本中の人が、みたいにひとくくりにされるのはかなわないな、そういうふうに何でも束ねるような考え方をするのは絶対にやめよう、と、そんなことを思いながら、午前中ずっとぼんやりしていた。
夕食には、地鶏をすき焼き風に煮て、きのこのサラダを作った。母にも電話。退院後すぐの血液検査の結果はそんなに悪くなくて、白血球を増量させるための注射を1本打てばいいだけだった、と嬉しそうだった。ほうれん草やらレバーを食べて、血をつくらなくっちゃ、と、前向きな発言も出て、今日はけっこうテンションが高かった。うんうんよかったねえ。わたしにできることは、こうして話を聞くことくらい。上がり下がりする気持ちに、一緒について行くことくらい。
夜、『キェシロフスキの世界』を読む。

私の映画は、処女作から最新作に至るまで、自分の居場所を見失い、どのようにして生きたらよいのかわからず、正邪の区別がきちんとつけられないために、必死になって捜し求めている個人をテーマにしている。何を捜し求めているかといえば、すべては何のために存在するのか?なぜ朝、起きるのだろうか?目覚めてから次に目覚めるまでの間、どのように時間を使えばいいのか?朝、安らかに髭を剃ったり、お化粧をすることができるようにするためには、どのようにして時間を使うべきだろうか?というような基本的な問いに対する答えを捜しているのだ。

わたしも、その答えを見つけたい。