なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

野口五郎の夜

週があけた。今週が最大の山場だ。今週さえ終われば、終わってしまえばあとは何とかなる、あとは…、しかし、このあとには何があるのだろう。
昼から、研修。雨の中、上司と梅田まで出かける。2年前にうちの部署に異動してきたこの人と一緒に外出するのは初めてだ。どんな話題に食いついてくるのかよくわからないので、探りながらの会話。新卒でうちの会社に入り、順調に昇進を重ねてきて、わたしと10歳しか違わないのに、もう大学生の子供がいる。Gさんて陽の当たる大通りを歩いてはるんですね、と言ってみる。え、どういうことなん?と聞かれたけれど、地下街の人ごみにまぎれたふりをして、わたしは答えなかった。
研修は退屈で眠かった。この後、懇親会に出席しなければいけないことも、鉛を飲んだように気持ちが重かった。懇親会の席につき、おじさん達と名詞を交換する。誰が誰だかさっぱりわからない。刺身とサラダと揚げ物と寄せ鍋とビール、ビール、ビール。テーブルに女はわたしだけだから、そうするのが当然のように、食べ物をみんなの皿に取り分ける。おじさん達は話すのに夢中で、取り分けられた料理はあまり食べない。もう要らないのに、コースで注文してあるから、お腹いっぱいになった後で、おにぎりが配られたりしてしまう。最初の一、二杯は空いたグラスを見つけてビールをついてあげていたが、途中から何もかも面倒くさくなって、ワインを頼み、ひとりでちびちび飲んでいた。空虚な宴の後は、散らばったお箸と、残飯の山。こういうテーブルの上を見るのは辛い。
トイレに行って時間を稼いでから店の外に出てきたはずなのに上司が待ち受けていて、新地行く?ちょっとだけいかへん?と言われ、その気もないのに、一緒に曽根崎通を歩いてしまう。週明けすぐというのに新地は割りと多くの人が行き交っていた。全日空ホテル近くのスナックに入る。女はわたしひとり。みんなの「自慢の喉」というやつを聞かされる。上手いか下手かはなんとも言えんけど、それぞれ自分で自分の歌が一番上手いと思っていることはよくわかった。わたしの上司は、直立不動で野口五郎の歌を歌った。野口五郎の歌なんて、カラオケで初めて聞いた。一本調子で音程が外れていたが、拍手だけはしてあげた。
スナックのママやバイトしている女の子と話すのが好きだ。彼女達はプロだ。人の気分を悪くさせない天性の素質がある人だけが、この職業につける。この店のママは広島出身で、わたしが水を向けると、少しだけ小さい声で、1945年前後の話をしてくれた。バイトの女の子は、胸のでかいかわいい子で、おじさん達の相手をして、訳のわからないデュエット曲を歌っていた。この仕事して初めて石原裕次郎ってどんな人か知りました、と言っていた。勉強のために「東洋経済」も読んでいるそうだ。わたしのために何杯も水割りを作ってくれた。もう帰らなあかんで、と上司に促されるまで、けっこう長い時間、スナックのソファの隅で、たくさん人生勉強をしてしまった。
23時すぎ帰宅。山の特集の『ブルータス』を読む。