なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

来た道にすいこまれる

午前5時起床。MDに録音しておいた、先週分の『世界の快適音楽セレクション』を聞きながら、朝ごはん(たまご焼き、ちりめん山椒、インスタントの若布スープに葱を加えたもの、きゅうりの漬物、ほうじ茶)をこしらえて食べ、シーツを洗濯し、シャツにアイロンをかけて、残りの時間で読書。今、空き時間に読んでいるのは、高村薫『作家的時評集2000-2007』(朝日文庫)。
まだMDなんか使っているのか、と会社の誰かに言われた気がするが、ラジオ番組を録音する手段に、他にどんなものがあるのか知らないし、調べる気もないので、ずっとMDに番組をおとし続けている。

8時前になると、出勤する。大阪の梅雨はいまだあけず、締め付けられるような湿気た空気に覆われている。片道30分強を早足で急ぐのは、朝の比較的気温の低い時間帯でも、相当きつい。しかし、わたしは歩き続ける。途中、御堂筋を遥か遠方に見るとき、本当に会社に着けるのだろうかと、心底気が遠くなる。常人のすることではないとわかっているが、それでも自分を追い詰めることを決してやめない。コーナーぎりぎりまで追い詰められた自分を、見てみたい衝動に、いつもかられる。

一息ついて、ひとりになるため、昼休みは、中華料理店で麻婆豆腐定食。食後にサービスでアイスコーヒーを出してくれる。ストローで珈琲を吸い上げながら、ドストエフスキー罪と罰』を読む。ラスコーリニコフポルフィーリー相手に、犯罪哲学について語るところ。ラスコーリニコフは自分を実感したいためだけに人を殺したのだ、と、以前読んだときは思っていた。今回、ここまで読んできてみて、ただ殺したかっただけなのじゃないか、と感じた。ただやってみたかっただけ。そして、この世界から出て行きたかっただけ。その他は、後からくっつけた、もっともらしい理屈でしかないのではないか。
そんな風に思うのは、息苦しい熱気が突き上げる大阪の街であくせく働いているわたしが、そこに共感したいだけなのかもしれないが。

1時間ほど残業して帰る。土曜日なのに、ご苦労様なことだ。世間は3連休なのだそうだ。それにしては、行き交う人の数が少ないような気もする。わたしも、休暇でも取って、「ここではないどこかへ」出かけて行きたい、なとど陳腐なことを思わないでもないが、特に行きたい場所が思い浮かばない。
ジュンクに寄って、小沼丹『村のエトランジェ』(講談社文芸文庫)を購入。帰ったら、『地獄の黙示録』のDVDが、アマゾンからメール便で届いていた。
晩ごはんは、素麺に焼き茄子、オクラのゴマ和えに、冷奴に、プレミアムモルツ
シーツはベランダで生あたたかい風に揺れ、パシパシに乾いていた。