なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

エルザッツ

8月13日から今日まで、夏休みだった。もうすぐ、それも終わる。
休みの尻尾につかまっているような、最終日の今日は、家で身辺整理をしていた。昼ごはんに、素麺を茹で、昨日つくった茄子の煮浸しを冷たくしておいたのを食べてから、近所のコーヒーショップに出かけ、図書館の返却日が近づいて、今日から慌てて読み始めた高村薫『晴子情歌』の上巻を、メモを取りつつ200ページほど集中して読み、読み疲れてアイスコーヒーをすする。
外は晴れているが、けっこうさわやかな風も吹いていて、歩いていてもそんなに汗をかかなくなった。今年の夏は短い、などとよく言われるが、日中たえず早足で大阪の街を歩き続けている身には、5月の末くらいから夏をやっているような気がしていて、ちっとも短いなどとは思わず、早く秋になってほしい。

そのあと、スーパーで鯵、大葉、きゅうり、オリーブオイル、牛乳とパンを、ぐるっとまわって駅前のワインショップでコノスルの赤を買い、家に帰る。洗濯ものを取り入れながらベランダから西の空を見ると、ちょうど太陽がビルの間に沈んでいくところだった。

夏休みにいろいろ出かけた先でもらってきたチラシや、フリーペーパーの整理をする。
今年は、何年かぶりで、下鴨の古本市に行った。わたしの行った14日はとても気持ちのいい天気の涼しい日で、森の中の冷えた空気が格別だった。暑さに閉口する割には収穫がないことも多く、苦難の思い出に満ちている下鴨であるが、今年は、すっきりした気持ちで本を見ることができた。しかし、本を買えないのはいつものことで、わたしは古本に対して、ストライクゾーンを狭めすぎているというか、広い心を持ち切れていないような気がして、反省することしきりだった。その数日前に、天牛堺で『ナボコフ短編全集』の1巻を1000円で買ってしまっていたことで、運を使い果たしたのかもしれん。結局、カトー・ロンブ『わたしの外国語学習法』というのを、買ったのみ。米原万里訳。
そのあと、近代美術館で『野島康三展』を観られたのが収穫だった。写真はおもしろい。

母の相手をしに、実家へも帰った。母に会った後は、いつもシモーヌ・ヴェイユを読みたくなる。何でかしらんけど。

人間の構造。だれでも苦しんでいる人は、自分の苦しみを知らせたいとつとめる。他人につらくあたったり、同情をそそったりすることによって、それは、苦しみを減らすためであり、事実、そうすることによって、苦しみは減らせる。ずっと低いところにいる人、だれもあわれんでくれず、だれにもつらく当たる権限をもたない人の場合(子どもがないとか、愛してくれる人がいないとかして)、その苦しみは、自分の中に残って、自分を毒する。
それは、重力のように圧倒的にのしかかる。どうして、そこから解き放たれるだろうか。重力のようなものから、どうして解き放たれるだろうか。
シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

晩ごはんに、買ってきたきゅうりと大葉をつかって、きゅうりと玉子のサラダをつくる。『暮しの手帖』に載っていたレシピ。鯵を焼いて、白いゴーヤーと揚げの酢の物と、ごぼうの天ぷら、ビールと赤ワインを一杯、最後にちりめん山椒で白ごはん。相変わらず、ごはんはいつも、とても、美味しい。

夜も、『晴子情歌』の続き。疲れる。高村薫は、本人は精一杯やわらかく書いているつもりかも知れないけれど、硬い。その硬さがわたしの肩に重くのしかかってくる。しかし、高村薫と引き合わせてくれたのも、やはりあのひとだったのだから、その偶然を大切にしよう。大切にしているかぎり、わたしはなにものかから、解き放たれるのだ、解き放たれ続けるのだ、と思う。