なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

暗闇でも赤い薔薇

ひっそりと夏は去った 
暖かいというだけでは淋しい
楽しい夢が叶えられるとしても
ただ、それだけでは淋しい
善も悪も明るく燃え上がる
ただ、それだけでは淋しい
生は私をやさしく包んでくれる
幸せというだけでは淋しい
葉は焼かれず、枝も折られないで
さわやかというだけでは淋しい

タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』を観に行ったとき、上映までの待ち時間に『ストーカー』のポスターを眺めていて、そこに書いてあった詩がとてもよかったので、覚えようと思った。そのときは覚えた、と確信したけれど、数時間後に案の定忘れて、帰宅してから『ストーカー』の映画パンフレットを探し出し(何でも取っておくものだ、そして、何でも古書市で買っておくものだ)、シナリオの中から詩を見つけて、ノートに書いておいた。そして、DVDで映画を見直した。
幸せというだけでは淋しい。

アンドレイ・ルブリョフ』は、本当にスクリーンで観られてよかった。3時間ずっとモノクロできて、ラストで樹木のアップにだんだん色がついていき、木の間からルブリョフが残したイコンがカラーで浮き出てきて、絵画の細部を丁寧になぞった後で、雨のたたきつける河がイコンをバックから包むように、まるで絵に雨が降るように画面に溢れてくるラストシーンは、神がかり的だった。こんな映画を撮った後で、『鏡』や『ノスタルジア』を生み出したのだから、やっぱりタルコフスキーは、今さらこんなことをいうのもなんだけど、天才だ。

日曜日の終わり。自転車に乗って、図書館に本を返しに行った。一週間延滞していたので、後ろめたさに動かされた。日曜の夜は、平日や土曜より人気が少ない気がする。自転車で走っていても、ほとんど人に会わない。図書館前にある返却ポストに本を入れる。返却した本は『女優 岡田茉莉子』。映画史としても読めて、面白かった。なんと言っても、本全体が吉田喜重へのラブレターみたいになっている。『こんな素晴らしい映画を撮ってしまえる吉田が、私は本当に誇らしかった』、という調子で。
本はポストの扉を開けて、滑り台をすべって、バサッと落ちた音がした。落ちた拍子に本が開き、ページが折れたりしないように、ゴムで止めてきたから大丈夫なはず。帰り道、スーパーに寄って、水とバナナとヨーグルトと葱を買った。閉店間近のスーパーもやっぱり空いていた。レジをしめて、レシートを巻き上げている音が聞こえる。日曜日も巻き上げられていく、と思ってみる。馬鹿馬鹿しい、そんなのはただの感傷にすぎない。

店を出て、空を見上げる。わたしはさっきまで京都にいて、京阪電車に乗る前に、針生姜みたいな細い三日月を見た。それと同じ月を大阪でも探そうとしたけれど、見つけられなかった。こんなに晴れた空なのに、どうしてかわからないけど、黒い空のどこにもなかった。月が消えた。ぐるんぐるんと首を回して、見続ける。タルコフスキーもこんな空を見ただろうか。60年代から70年代のロシアの空は、もっと暗かっただろうか。

部屋に帰ってきて、突発的に、日記を書こうと思ったので、書いた。何も書かないこともできるし、何か書くこともできる。わたしは自由で、どうにでもなるし、どうにでもする。

これから、北海道から送られてきたジャガイモと玉ねぎを使って、カレーをつくる。日曜日の最後に、明日のためのカレーをつくる。