なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

きみのような厳しさに

小学生のわたしが、スライムを握っている夢をみていた。オレンジのプラスチックのにおいが夢の最後の記憶で、目覚めると、東の窓から日がさんさんと降り注いでいて、頭に当てて寝ていた保冷剤がぐにゃぐにゃしてぬるかった。スライムの正体はこれ?頭の中は、寝ているときも起きている時も、貧困で短絡的だ。

午前5時でも、太陽は高くのぼり、熱く照っている。この暑さで本当にまだ6月なのか。ポッカレモンと水を混ぜたレモン水を飲みつつ、洗濯機をまわし、朝刊を開いて斎藤美奈子の「文藝時評」を読み、続いて、全く面白くない連載小説を読み、ラジオのニュースと天気予報を聞いて、シャワーを浴び、昨日の日記をつけ、洗濯物を干す。それでもまだ午前6時半。でも出かける支度はしなくてよい。今日は休日だから。

掃除や布団干しなどを一通り終え、家中で一番涼しい玄関に座って、ドアを開け放ち、しばし本を読む。堀江敏幸『なずな』を読んで影響されたことは、マンロー・リーフまどみちおを読み返すことと、珈琲のおともにビスコを食べることと、それから、カレーピラフをつくることだ。ピラフというものを今までつくったことなかったなあ、今夜はピラフに挑戦、と空を見つめて段取りを考えていたところ、ドアからひょっこりと妙齢の女の人が顔をのぞかせ、エホバの証人の某でございます、今日はぜひとてもよいお話を聞いていただきたくて…、と笑う。今忙しいので帰ってくれ、と言うと、申し訳ございません、本当にお忙しそうで…、とまた笑う。Tシャツに短パンで本片手にボーッとしている人間が忙しいとは、この国では「忙しい」とはどのように定義されているのだろうか。では本日はこれで失礼いたしますが、この素晴らしい冊子をお読みいただけませんか、などと差し出そうとするので、わたし字が読めないんです、と新聞勧誘を断る時と同じことを言って、追い返す。まあ、と目を見開き、さようでございますか、などと言って、帰っていった。このくそ暑いのに長袖だ。素晴らしい話もけっこうだが、もうすこし季節感を身につけたほうがよろしかろう。
こんなことをしていると、昼近くになってしまった。時間は伸び縮みする。

午後になると、暑すぎて部屋にいられなくなったので、外出した。ipodで、マデリン・ペルーとフェラ・クティのアルバム1枚ずつ聞き終える間、坂を下りたり上ったり、書店をのぞいたり(みすず書房から出た『映画もまた編集である』辛抱たまらず買ってしまった、4600円!)、スーパーで涼んだり(ピラフのためにインディアン食品のカレー粉を仕入れる)、図書館に本を返したり(井上ひさし『一週間』。後半、少し大味)、歯医者の予約を入れたり(親知らずに不具合を感じたため)、珈琲ショップでアイスコーヒーをすすり、アントニオ・タブッキの自伝を読んだり、その店でグァテマラ300g豆を買ったり、また坂を上って、歩いて歩き続けて、最後は音楽聴くのも面倒になって、家に帰った。夕方だった。休みはもう、終わったも同然。

日が暮れてから、ラジオで野球の実況を聞きながら、カレーピラフをつくった。米を洗うかどうするか迷ったが、洗わないでも問題なくうまくできた。小説ではブロッコリーの茎を入れていたけど、わたしはアスパラにしてみた。それとオクラを茹でて梅干で合えたものと、冷奴とトマトとモルツ。食べ終わって、洗い物を終え、シンクを磨きおわったと同時に阪神が負けた。

何かを考えないでも、考えても、思っても思わなくても、時間は同じに過ぎる。

しあわせはいつも 別々のちがう いたみを話せるときにわかる
年老いてぼくが かわってもきみを 愛した時間をおぼえていたい

夜になって、本棚の整理をしているとき、急に大江千里が降りてきた。こんな歌詞だったかなあ、違っているかもしれないけど、わたしはこんなふうに覚えていて、これでしっくりくるので、間違っていてもいいことにして唄う。
わたしの記憶には、それだけが残ればいい。