なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

8月の枯れた太陽に

8月1日(月)
天気予報では不安定な空模様ということだったけれど、結局一滴も降らず、地面も空気も一日中、熱いままだった。
会社では、月初恒例の全体朝礼。普段はあまり足を踏み入れない、経理部のあるフロアへ行く。西の入り口から入って一番手前のデスクにいる、小柄で後頭部が禿げたおそらくわたしと同年輩の男の人が、確かどこかで見かけたことのある風貌で、どこだったかどこだったか、と専務の挨拶の間ずっと考え続けていて、朝礼の終わる頃にやっと、昨夜繁昌亭の桂梅團治の「ほんとに独演会?」という落語会で、わたしの斜め前に座っていた人だと、思い至った。
独演会に「?」がついているのは、梅團治が3席演るほか、柳家花緑が2席も演ったからで(しかもトリ)、どっちがメインなんだかさっぱりわからなかったけれど、わたしは花緑の「明烏」が聴けただけで、もうすっかり満足していた。経理部の人はどっちかっていうと、梅團治目当て、という感じだったけれど、たぶんこのことについて、彼と話すことはないだろう。
昼休みに固定資産税を振り込み、とうとう定期購読するに至った『みすず』8月号を買う。郵便局よりクレジットカード配達の不在通知あり。
夕食は、ゴーヤとウインナーのそうめんチャンプルー、きゅうりの浅漬け、冷奴、キムチ、ビール小瓶1本。食後、トイレ掃除をする。

8月2日(火)
本日も晴れ。ジリジリと暑い。昼休みはサンマルクカフェで、ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』(ちくま文庫)を読む。文体がクールで好み。その後、マンションの管理費を払い込む。毎日、お金を振り込んでばかりいる。
帰り道、ふらふらと御堂筋をまっすぐ南下、ジュンク千日前店へ、Tに頼まれた客注の本を買いに行く。角川スニーカー文庫だかビーンズ文庫だか(何度聞いても覚えられない)の、新刊の文庫本。あまり足を踏み入れたことのない、3階の漫画のコーナーで懸命に探すが見つけられず、店員に問い合わせる。題名をちゃんと教えてもらえますか?と言われ、携帯電話のメールの文面を見ながら、ええっと宮廷神官物語、運命は兄弟を弄ぶ、です、と口に出すと、なんだか途方もなく恥ずかしくなる。店員のおかげで無事に見つかる。新刊のコーナーに山と積んであった。こんな本、売れるんですか?と聞いてみる。売れますよー、とのこと。そうなんか。こういう本を買ってくれる人に支えてもらって、わたしは読みたい本が読めるんだ。『未来』8月号をもらう。『未来』を見るとほっとする。
郵便局に寄り、昨日受け取れなかったカードを引き取って、帰る。鯖の塩焼き、オクラの梅和え、ごま豆腐、ビール小瓶1本。風呂に入って寝る。

8月3日(水)
朝日を浴びて、会社まで歩く。早く着いたので、木陰でひと休み。岡田温司『ジョルジョ・モランディ 人と芸術』(平凡社新書)を読む。ボローニャのつつましいアトリエで、毎日毎日、古ぼけた壷や瓶ばかり描いていたモランディ。同じことを繰り返し続ける、しつこさと頑固さがとんでもない才能だ。

反復ーこれこそが現実であり、生存の厳粛な事実なのだ。反復をえらんだ者のみが、ほんとうに生きるのである。反復はけっして飽きのこない、いとしい女房である。というのは、飽きるのは、新しいものにだけ飽きるのである。古いものにはけっして飽きがこない。そして、そのようなものが目の前にあってくれると、ひとは幸福になる。
人生は反復であり、反復こそ人生の美しさであることを理解しない者は、みずから首をつったもおなじで、くたばるだけの値打ちしかないのである。

キルケゴールの言葉、勇気が出る。

8月6日(土)
会社が終わった後、谷町線天王寺までゆき、イルビゾンテで財布を買った。
財布なんて買う予定ではなかったが、仕方がない。7月末に東京に日帰り出張したとき、財布をなくした。盗られたのか、落としたのか、わからない。新幹線に乗る1時間前に、ないことに気がついた。いつまでも、鞄の中に財布がないことが信じられなかった。いま自分がいる場所が東京であることも、一文無しであることも、実感がもてなかった。研修会場や、懇親会の店、あちこち探したが、なかった。浜松町の駅前にある交番に届けたが、今だに誰も何も言ってこないので、もうきっと出てこないのだろう。
帰りの新幹線のチケットはもちろん、現金2万円ほどと、数枚のクレジット、キャッシュカードが入っていた。それは、もう要らない。財布も、もういい。それよりも黒門市場や寺田町にある珈琲屋のポイントカードを返してほしい。東京の人は、そんなもの要らないだろう。そして、一番返してほしいのは、お守りとして財布にずっと入れていた、あの人と行った店のレシートと、一緒に乗ったタクシーの領収書だ。財布がないことに気がついて、一番に思いついたのはそれだった。レシート、どうしよう…、って思ったわたしのことは、今、思い返しても本当にかわいそうだ。
世界中の、わたし以外の誰にとっても、紙屑以下の価値しかない小さな紙は、今頃、どこにあるんだろう。