なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

わすれようとしてもおもいだせない

毎朝、谷町4丁目駅で、中央線から谷町線東梅田方面に乗り換える人たちは何故、階段の左側通行を守らないのか。…というのが積年の疑問だ。親切にもでかでかと「左側通行しましょう」と書いてある駅の注意書きを、たぶん誰も見ていない。それはきっと風景でさえない。頑なに左側の階段を登ろうとするわたしの前から、イライラ顔の人々が階段を大挙して降りてくる。それを見るたび、もう地下鉄に乗るのはやめよう、とかたく誓うのだ。
谷町線階段戦争に疲れたわたしはきょうもあしたも、照りつける朝日に痛めつけられながら、会社までの道のりをテクテクと歩く。

先月にちくま文庫から出た、山村修『増補 遅読のすすめ』を読んでから、なんとなく読み返したくなって『吾輩は猫である』を、読んでいる。『吾輩』を読むのは朝の時間と決めている。だいたい毎朝5時前には起きるから、ミネラルウォーターを飲みつつ、30分くらい読む。真夏は電気をつけなくても充分明るかったけど、最近は、4時台では日が昇りきっていないのか、自然光で活字を追うのは暗くて少々辛い。だから、東側の窓辺に座って夜明けを待つことを覚えた。黒から濃紺に、濃紺から赤茶に、赤茶からうっすら水色が溶けていくように変わる空の色を知ったことだけでも、『遅読のすすめ』を読んでよかった。

『吾輩』で好きなシーンはいっぱいあって、猫がねずみを取りそこなったり、蝉を取って食べたりするところとか、猫が一人語りする文章が案外好みだけれど、やっぱり一番は、迷亭が苦沙弥先生宅に勝手に蕎麦の出前を頼んで食べるくだりが、ばかばかしくて、のどかで、でもどこか哀しくて、好きだなあとしみじみ思ったりする。

同じくちくま文庫から出た、辻原登『熊野でプルーストを読む』にもいろいろと影響を受けた。久々に近松秋江を読み返したり、「声に出して読むチェーホフの短編」ごっこをしてみたり、谷町古書市で見つけた『樋口一葉全集』を張り切って買ったり、した。

きょうはおやすみだったので、朝から歯医者に行って(まだずっと通っている)、抜歯した後に入れた歯を仮止めしてもらって、そのまま歌舞伎座中村勘三郎復帰公演を観にいって、幕間に梅おにぎりをほうばって食べていたら、入れてもらったばかりの歯がまたとれた。口にまた空洞が開いた。口にも、こころにも空洞が。いや、わたし自身が空洞なんじゃないか。

本屋で、ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』(古典新訳文庫)を買い、食パンと、こんにゃくや焼豆腐、麩やしめじ、たまねぎを調達して帰る。今夜はすき焼きにするつもり。

毎日、いろいろ思うことがあって、ありすぎて、うわーなんか今まとめて書きたいことが降りてきたかも、と思うことって多々あって、それを言葉にしたいなと思うけど、実際書こうとすると全然出てこないから、そんな時わたしってやっぱ空洞だわ、と思う。パソコンを立ち上げること自体が億劫だったりして、でも米を洗ったり、トイレ掃除したりするのは全然億劫じゃないから、本当にしたいことじゃないんだろうか。いや、どうかな。けっこうやりたいことのひとつだと思うけどな。
きっとなんだってできるし、でも、なんにもできないんだろう。どっちにしたってたいしたことじゃない。息絶えるまで、考え続ける。