なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

牡蠣的人間

9月17日(土)
お昼の12時まで働く。土曜日の午後半休って、うれしい。会社を飛び出て、雨がポツポツ落ちている御堂筋の銀杏を見上げた途端、わたしは解放された、解放されました!と心の奥から喜びがこみあげてくる。もしかしたら、休日より、半休のほうが心がノビノビするかもしれない。

小学校の頃なら、ランドセルをゆらして家に駆け戻り、サッポロ一番しょうゆ味に葱と卵を入れたものを食べながら、吉本新喜劇を見て、寝転んで本を読みながら昼寝する、となるところだな、と感触を思い返しつつ、本町通りを東へ歩く。あの日々はもう二度と戻らぬが、戻らぬからといって、なくしたわけではない。

堺筋で昼ごはんを食べてから、谷町古書市をのぞくが残念ながら収穫なく、わたしは何を探しているのかわからんな、と考えながら、図書館で辺見庸『水の透視画法』を借りて、外に出たらザアザア降りの羅生門みたいな雨。気分は志村喬で、近所のスーパーで雨宿りしながら、トマトいんげんすだちにきゅうり、水菜小松菜じゃがいも玉ねぎ、ハムとウインナー、豆腐と牛乳に卵など、やたらに買い物してしまう。激しい雨は15分ほどで止む。

家でかたづけをすませ、夜は文楽劇場で落語。久しぶりに『らくだ』を聴く。『らくだ』を聞くと、人の生死のどうしようもない重さと、どうしようもない軽さのことを思う。人は死んだり生きたりをくり返して生きて、そして死ぬのだ。

日本橋のとり鹿で、焼き鳥とビール。無用になった傘をぶらぶらさせて帰る。暗い空にグレーの雲、煙草の自動販売機の横に寄り添うように猫がいた。

9月19日(月)
吉田美奈子のライブに行こうと思っていた。でも、なんとなく気が向かなくなって、キャンセルしてしまった。気が向かなくなるのには全然理由はない、ただ、突然、行きたくなくなるのだ。やめとこ、と思う。でも、NHKの「山下達郎三昧」から流れてくる、吉田美奈子のコーラスを聞いていると、行けばよかったかなと、後悔する。

中村とうようアンソロジー』を読む。この人がいなかったら、わたしの音楽の聴き方も変わっていただろう。芸のある酷評は、賛同できないときもおおかったけど、いつのときも、自分のものさしの尺度を変えないところは、充分尊敬に値する。

日が照りつける中、『岸田劉生展』を観に、大阪市立美術館へ行った。麗子いっぱい、とポスターにはあったが、負けず劣らず、劉生もいっぱいだった。自画像描きすぎ。その自画像が全て正面を見据えているのに対して、他人を書いた肖像画のほとんどが、あらぬ方向を見ている。その目はどこを見ているかわからない。宙をさまよい、虚空を見つめて、心がここにないようだ。他人は自分をみていない、と劉生は感じていたのか?わからん、人の考えていたことなんて、わかるわけがない、わかるような気がするだけだ。わかったような気がしたいだけだ。
岸田劉生静物画がいちばん良い、とわたしは思う。鵠沼以降の、ゆるやかに終息にむかっていく頃の日本画などは、見ているのが辛くなる。
ミュージアムショップでは、かわいくイラストみたいにした「麗子シール」なんかが売っていた。婦女たちが購入していて、なんだか、そんなのは本当にどうかと思うが、それがこの国の気分なのだろうか。

家では『山下達郎三昧』を最後まで聴き続けた。一枚もアルバムを通して聞いたこともないし、シングルも買ったことないのに、なんで、ラジオでかかる曲全部を何となく知ってるんだろう。
百年文庫『逃』より、田村泰二郎の短編を読んで、寝ました。