なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

わたしの瞳にとどまるならば

6月1日。
入梅してから6月になった。朝晩はけっこう涼しく、窓を開け放っていると、手足が冷たくなってしまう。
きょうは夕方に、少しだけ雨が降った。会社の窓際の席に座って帰り支度をしているとき、ぽつぽつと窓に雨粒が当たって、そのまま下に目をやると、横断歩道を渡る人々が、思い出したようにゆっくりと傘を広げているのが見えた。雨の季節がきた。
帰り道、いつもと違う道を歩いてみようと、新しくなった中央郵便局の前を通って、JRの高架下を抜けて、ヨドバシカメラのほうに抜けた。人だかりがして、大きくて新しいビル群を屋台のようなものと、人工の水路がグルグル取り巻いているところがあり、たいへん賑やかだと感心し、ああこれがグランフロント大阪というものか、と思い至るまでに、数分かかった。中に入ってみようとはさらさら思わなかったけれど、そこにいる人たちはたいへん楽しそうに見えた。みんな笑っていたし、中には真剣な顔をしている人もいたけど、一生懸命真剣そうだった。それぞれ、何かを食べたり、何かを買ったり、何かを眺めたりしていた。わたしたちは遊び道具がほしいんだろうか。新しいのに、既にもう何度も見ているような光景に思えるのは、なんでなんだろう。
さらにぶらぶら歩き、地下鉄に乗る前にブックファーストで『バベルの図書館』の第5巻、ドイツ・イタリア・スペイン・ロシア編を購入した。もう本を買う時に、値段が高いとか安いとか、重いとか軽いとか、読みやすいとか読みにくいとか、あんまり思わなくなった。アラルコンやパピーニが読めるのがたのしみだ。
近鉄百貨店で白ワイン2本と店のおばちゃんに勧められて豚角煮とじゃがいもの煮たのを買った。自宅で人参を刻んでサラダにして、冷奴と、ツナにキムチと葱とごま油をかけたものを作って食べた。何を食べても美味しい。

6月5日。
きのうは午後から6時間、講演会やら勉強会やら会議があり、何でわたしがそんなことをしなくてはいけないのかさっぱりわからないのだが、50人くらいのおじさんの前で喋らないといけなかったりして、すごく面倒くさい日で、夜はその打ち上げみたいな飲み会があり、それは準備やら後片付けなどで煩わされたわたしやその周辺の人々への「慰労会」という名前がついているようなのだが、会社で催される飲み会に慰労されることはありえないのであって、たださらに疲労が積み重ねられるに違いないけれど、まあきっとお金は取られないのだろうとタカをくくってひたすら呑んでいたら帰り際に、じゃひとり2千円で、などと言われたので、ひっくり返りそうになった。
サッカーの日本代表がW杯出場を決めたそうで、居酒屋はそのテレビ中継で盛り上がっていた。しかし、それはわたしには特に関係がないことだ。
これは4日の出来事だった。
5日はお休み。午後より難波へ出かけ、『イノセントガーデン』を観た。話の展開だけじゃなくて、いつも階段で何かが起こるところと、一から十まで緻密に計算された撮り方もヒッチコック。罪とはある意味「またぎこす」ことだ。向こう側を覗き込むのは恐ろしいけど、これほどの甘美さもない。監督はそのことを良く知ってる。観たことないけど『オールドボーイ』も観たくなった。借りてこようかな、でもツタヤの会員証、どっかいっちゃった。
夜は、天王寺にある、お気に入りの居酒屋で飲む。肴はどれも美味しくて、びっくりするほど安い。
帰ってから、『荷風俳句集』を読む。

生きていたくもなければ、死にたくもない。この思いが毎日毎夜、わたくしの心の中に出没している雲の影である。わたくしの心は暗くもならず明るくもならず、唯しんみりと黄昏て行く雪の日の空に似ている。

永井荷風のこういう文章を読むと、『グレートギャッツビー』のニック・キャロウェイのことを思う。
過ぎていく一切を、ただ眺めている。