なんでもよくおぼえてる

人生はからっぽである

わたしは書物の表題に恍惚となるのです

たぶん、9月になってから一度もエアコンを稼動させてない。扇風機はもともと使っていないので、自然の風だけで生活できている。こんな当たり前のことがありがたく感じられる今年の夏も、もう終わりだ。

8月の終わりに、京阪特急内で忘れた日傘が、本日無事手元に戻ってきた。梅雨になる前に購入した麻の日傘で、とても気に入っていた。改札を出て手元にないと気がついてすぐ駅長室に行きその旨申し述べたところ、傘の特徴を詳しく聞かれた。とにかく1万2千円もしたんですよね、と食いつくように言ってみたのだが、値段まではけっこうです、と冷たくあしらわれた。何でもすぐ金の話にしてしまう癖、何とかしなくては。

今回は無事、淀屋橋駅で確保された。思い返せば今まで一体何本の傘を、四方八方あちこちに忘れてきたことだろう。それらは「忘れ物市」などで、善良な方々の手にきちんと渡っているのだろうか。わたしが持っている持ち物は、いつまでが自分のもので、どこからそうでなくなるのだろう。

テアトル梅田で『夏の終わり』を観て、持ち物のことを何となく考えた。人の心は持ち物には出来なくて、そうである以上、約束も確約もないし、安らぎも信頼も、所詮、砂上のものでしかない。最後まで答えを口にしない小杉は確かに優柔不断でずるいけど、答えのなさに助けられてるのもまた真実で、それは愛じゃなくて習慣だ、という台詞があったような気がするけど、習慣と愛はもしかして表裏一体なんじゃないの、それは失くしたときにはじめてわかるかも、とかいろいろ思って、まあまあ楽しかった。
何でこの映画がこんなに人気があるのか、満席状態で観て、映画館にギュウギュウ詰めに人がいるのは久しぶりに見たせいか、なんだか気持ち悪くなった。年配の方が多いのは寂聴人気かと思っていたが、綾野某という人もたいそう人気があるようで、私の後ろの席の人は、思っていたより出演シーンが少ない、とぶつぶつ文句を言っていた。
コロッケを袋から出す音、それをかじる音、ビスケットを食べる音、絵をナイフで切り抜く音、男と女と猫の鳴き声、それに何と言っても雨音、などなど、音が印象的な映画だった。丁寧な質感で、小品ながら佳作だと思う。

岩城けいさようなら、オレンジ』を昼ごはんと晩ごはんのときに読んで、さっき読了した。久しぶりに前向きな小説読んだ。すごい!きょうは満員の映画館に行ったり、力の湧いてくる小説読んだり、普段しつけないことをした。こんな日もある。
これに比べて、この前に読んだ『ヘミングウェイの妻』には、腑抜けのような状態になった。相手に心を残した状態で、好きなままの状態で、誰かと別れた経験のある人は、この小説を読むことで、その時の自分の心理状態をもう一度丁寧に丁寧になぞりなおすことになる。もしも傷口がふさがってなかったら、そこから血が溢れて大変なことになるから、読むのはやめたほうがいい。喪失感がぐわっとやってきて、打ちひしがれる。誰かと別れるってことは、その人だけ別れるわけじゃないから、その時間ごと全部、においや景色や空気や声や何もかも全部、持って行かれてしまうから、その空洞ともう一度、向き合わされる。

今はグスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』を、心静かに読んでいる。